
楊貴妃(楊玉環)と唐の第9代皇帝・玄宗(李隆基)のラブロマンスはとても有名。
ただ、美化されて後世に伝わっていますが、当時の倫理観を揺るがす大スキャンダルでした。
楊貴妃はもともと、玄宗の実の息子・李瑁(寿王)の正妻でした。
つまり、玄宗は「息子の妻」を略奪したことになります。

国のトップとはいえ、この行為は批判の対象となりうるものでした。
玄宗は略奪をどのように成功させたのでしょうか。
李瑁と楊貴妃の夫婦生活から、楊貴妃略奪の経過、李瑁のその後まで紹介します。
楊貴妃と李瑁(寿王)の夫婦生活
玄宗が楊貴妃を見初める前の開元22年(734年)。
楊玉環は玄宗の娘である咸宜公主の結婚式に参列しました。
美しい楊玉環は李瑁の目に留まり、翌年二人は結婚しました。

結婚から2年後の開元25年(737年)、玄宗は愛する武恵妃を病気で失います。
玄宗は悲しみに暮れ、政治への関心さえも失っていきました。
後宮にはたくさんの女性がいましたが、玄宗の心を癒やす者は現れません。
こうした玄宗の健康と政治の停滞に危機感を抱いたのが側近・高力士。
高力士は武恵妃に代わる女性を探します。
その結果、白羽の矢が立ったのが、李瑁の妻である楊玉環でした。

李瑁と楊玉環の夫婦生活は5年間続きましたが、二人は子供を授かりませんでした。
もし二人の間に子供が誕生していれば、玄宗は子供から母親を引き離すことになります。
宮廷内や臣下の反発はさらに大きなものになっていたはず。
また、皇族の血統や後継者問題(子供の扱い)なども複雑だったはずです。
二人の間に子供がいなかったことは、関係を断ち切りやすい原因になってしまいました。
玄宗が李瑁(寿王)から楊貴妃を奪った経過
国のトップであっても、息子の妻を自分の後宮に入れることはできません。
宮廷内や臣下の反発を避けるため、玄宗は段階的な手続きを踏みました。
玄宗と楊玉環が温泉宮で対面する
開元28年(740年)、玄宗は驪山にある温泉宮(後の華清宮)に楊玉環を呼び出します。
楊玉環は美貌だけでなく、玄宗が深く愛した音楽や舞踊の才能もありました。
温泉宮で楊玉環の踊りを見た玄宗は自分のものにすることを決意します。
楊玉環を道士(尼)として出家させる
楊玉環に一目ぼれした玄宗は、
「亡き母(昭成皇后)の冥福を祈るため」
という大義名分を掲げ、楊玉環を出家させ、道教の道士としました。
出家して俗世を捨てることは、それまでの婚姻・親族関係をすべてリセットすること。
つまり、この出家によって、楊玉環は法的に「李瑁の妻」ではなくなりました。
紹介したように、李瑁と楊玉環の間には子供がいませんでした。
そのため、親権や養育問題などもなく、李瑁と玄宗の間に争いもおきませんでした。
玄宗は楊玉環を宮廷内の道観(太真宮)に住まわせました。
李瑁に新しい女性を紹介する
楊玉環と離縁した李瑁は独り身。
李瑁が独り身のままでは、玄宗の略奪行為が際立ってしまいます。
そこで天宝4年(745年)7月、名門出身の韋昭訓の娘・韋氏を紹介。
新たな正室として迎えるよう、李瑁に命じました。
李瑁に新しい妻を用意することで、李瑁の婚姻問題を解決し、同情や批判の声を抑えました。
楊玉環を貴妃に冊立する
李瑁の再婚から翌月の天宝4年(745年)8月。
玄宗は道士「太真」の籍を俗世に戻し、楊玉環を後宮の最高位である貴妃に冊立しました。
当時皇后の座は空席だったため、楊貴妃は後宮の首位に立ちました。
5年かけて、玄宗は楊貴妃を後宮に迎えたことになります。
李瑁(寿王)のその後
実の父である玄宗に妻を奪われた李瑁。
その後、どのような生活を送ったのでしょうか。
絶対権力を前にした服従
玄宗が愛した武恵妃から生まれた李瑁。
ただ、後ろ盾だった母は既に亡くなりました。
また、「妻を奪ったことで、私を憎むのではないか」と、玄宗から警戒されています。
玄宗に少しでも反発心を見せれば、李瑁は処刑されるリスクがありました。
そのため、李瑁は不満を漏らさず、従い続けるしか生き残る道はありませんでした。
新たな妻との生活と静かな晩年
玄宗が用意した新たな妻・韋氏との結婚生活はとても平穏でした。
楊貴妃との間には子供を授かりませんでしたが、韋氏との間には5人の息子が生まれます。
李瑁は無事新たな家庭を築き、玄宗と距離を置きました。
玄宗は李瑁を粛清する必要がなくなり、李瑁は皇族の地位と安全を手に入れました。
かつての妻の最期を見届ける
天宝14載(755年)に安禄山が挙兵し、安史の乱が勃発。
反乱軍から逃げるべく、玄宗と楊貴妃、そして李瑁を含む皇族は四川に向かいます。
その途中、玄宗を護衛していた兵が馬嵬駅で暴動を起こしました。
怒りの矛先は楊貴妃に向かい、楊貴妃は玄宗の命令で自害に追い込まれました。
かつての妻が実父の手によって処刑される光景を、李瑁は目撃することになりました。

乱の終結後、上皇となった玄宗は宮中で寂しく亡くなりました。
一方の李瑁は激動の時代を生き延びます。
玄宗の孫にあたる代宗の治世である大暦10年(775年)に亡くなりました。
まとめ:ラブロマンスの裏側にあったのは…
玄宗と楊貴妃のラブロマンスの裏側には、
・李瑁と楊貴妃の間に子供がいなかったという偶然の要素
・綿密に計算された出家と還俗の手続き
・国のトップである皇帝の絶対的権力
が存在していました。
妻を奪われるという屈辱を味わった李瑁。
でも、結果としては、温かい家庭を築いて、幸せだったのかもしれませんね。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
![]()


