小栗忠順がアメリカと通貨交渉をした背景と方法、成果とその後

200年以上続いた鎖国に終止符をうち、開国を果たした日本。
アメリカと不平等条約を結んだ日本は通貨問題に直面していました。

この危機に立ち向かい、圧倒的な知識と交渉力でアメリカをうならせたのが、小栗忠順(小栗上野介)です。

小栗忠順がアメリカで通貨交渉をおこなった背景と交渉の方法、成果とその後をわかりやすく紹介します。

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小栗忠順がアメリカと通貨交渉をした背景

日米修好通商条約の批准書を手渡すために、渡米した万延元年使節。

武士
小栗忠順

でも、実は批准書の手渡しの他に、もうひとつ目的がありました。
それがアメリカとの通貨交渉です。

なぜ、アメリカと通貨交渉をおこなうことになったのでしょうか。
その裏には、開国直後の日本が陥っていた深刻な経済的失策と大量の金(小判)流出問題がありました。

日米修好通商条約の第5条

1858年(安政5年)、江戸幕府はアメリカ総領事・ハリスとの間で日米修好通商条約を締結。

この条約の第5条には、
「外国の貨幣は、日本の貨幣と同種同量(同じ種類・同じ重さ)で交換する」
という取り決めが含まれていました。

一見すると公平なルールに思えますが、当時の日本と世界の貨幣制度には大きな違いがありました。

国内と海外の「金銀比率」の違い

当時の金と銀の交換比率は「金 1:銀 15〜16」程度が国際標準。
でも、鎖国をしていた日本の交換比率は「金 1:銀 5」程度でした。

武士
小栗忠順

つまり、日本では欧米に比べて、金の価値が安く設定されていたのです。

さらに、当時の幕府が発行していた「一分銀」には、含まれる銀の重さ以上の価値がありました。

でも、ハリスは「洋銀の重さ」と「一分銀の重さ」を単純に比較。
「1ドル銀貨=一分銀3枚」という両替レートを幕府に強要しました。

莫大な金(小判)の海外流出と経済の混乱

外国人商人や外交官たちはこの不当なレートを利用し、金をどんどん入手します。

横浜と外国を往復するだけの錬金術!
① 洋銀を日本に持ち込む
② 1ドル銀貨を一分銀3枚に両替する
③ 一分銀を集めて、純度の高い天保小判(金貨)に両替する。
④ 天保小判を海外へ持ち出し、金銀比率(1:15)で売却。
⑤ 大量の銀貨(約3倍)を得る。(①に戻る)

このような取引が繰り返され、日本から大量の小判(金)が海外に流出。
金の流出は国内の経済を揺るがし、物価高を引き起こす原因となりました。

この通貨問題を解決するため、小栗忠順がアメリカで直接交渉に挑むことになりました。

アメリカとの通貨交渉の方法

小栗忠順は「レートが不当だ」と感情的に主張しませんでした。
科学的データと高度な経済論理を用いた知的なアプローチで交渉を行いました。

分析実験を提案

ワシントンに到着した小栗忠順は、アメリカ政府の高官に対して通貨交渉を開始。
小栗忠順は交渉において、主に次の4点を主張しました。

一分銀の扱い

幕府の信用で価値を担保している貨幣(名目貨幣)である

洋銀比較の誤り

一分銀を洋銀と同等に重さだけで比べるのは間違いである

日本の基軸通貨

日本の基軸通貨は「天保小判(金貨)」である

正確な交換レート設定

両国の貨幣に含まれる「純金・純銀の実際の量」を精密に測定・比較して決めるべきである

アメリカを納得させるため、小栗忠順はフィラデルフィア造幣局で分析実験を提案しました。

フィラデルフィア造幣局での分析実験

フィラデルフィア造幣局にて、日米の専門家が見守る中で分析実験がおこなわれました。

① 日本の「天保小判」、「一分銀」、「一分金」
② アメリカの「20ドル金貨」や「1ドル銀貨」
を用意して高熱で溶かし、金の純度や含有量をミリグラム単位で計測しました。

このとき、小栗忠順が用いたのは、日本伝統の天秤と算盤(そろばん)。
素早く正確に計算をおこない、アメリカの分析官を驚かせました。

「タフ・ネゴシエーター」と称えられる

小栗忠順は一分銀(35.6セント)と一分金(約89セント)の含有量の違いを証明しました。

武士
小栗忠順

一分金(金貨)の含有量を基準する。

1分=90セント(1両=3ドル60セント)として両替レートを再設定するべきだ!

現地の新聞やメディアは、小栗忠順を「タフ・ネゴシエーター(屈強な交渉人)」と称賛。
その高い計算能力と論理的思考を絶賛しました。

通貨交渉の成果

分析実験によって、アメリカは小栗忠順の主張が正当だと認めざるをえませんでした。

でも、条約はすでに締結された後。
また、アメリカ国内の事情もあって、新レートに改定する合意文書の取り交わしには至りませんでした。

小栗忠順は大西洋をまわって喜望峰やインドを経由し、日本に帰国します。
この時、アジア諸国が欧米列強の圧力を受けていると知り、軍備強化に乗り出しました。

その後

小栗忠順がアメリカで正当性を証明している間にも、国内からの小判流出は止まりませんでした。

そこで、幕府は天保小判の質(金の含有量)を約3分の1に落とした「万延小判」を発行。
日本の金銀比率を強引に国際水準(1:15)へと合わせました。

万延小判の発行により、金の海外流出自体はストップしました。
でも、貨幣の金の価値を大幅に下げたことで、物価はさらに高騰し、庶民の生活はより困窮しました。

まとめ:交渉は不成功でも、アメリカにインパクトを与えた!

小栗忠順の通貨交渉では、条約上の交換レートを変更することはできませんでした。
でも、不条理な開国要求に対して真っ向から挑んだ日本初の本格的な国際交渉でした。

アメリカ政府や専門家に「日本には知性と度胸のある外交官がいる」という印象を与えたこの交渉。
日本外交史において、極めて重要な一歩となったのではないでしょうか。
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