16もの国が存在し、次々と興亡した五胡十六時代。
多くの国がひしめき合う中で、約150年も続いた国が北魏です。
北魏を建国した道武帝(拓跋珪)とはどのような人物なのでしょうか。
道武帝(拓跋珪)の生涯を紹介します。
劉庫仁や賀蘭部に身を寄せる
道武帝は371年生まれで、代の10代王・昭成帝(拓跋什翼犍・たくばつじゅうよくけん)の第2皇子・拓跋寔(たくばつしょく)と献明賀皇后(賀氏)の間に、第1皇子として誕生しました。
代は五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国です。
道武帝が生まれる2ヶ月前に、拓跋寔は戦いで負った傷が原因で亡くなり、拓跋寔の死後、献明賀皇后は拓跋寔の弟・拓跋翰と再婚しました。
名前は拓跋珪(たくばつけい)といいます。
376年、前秦が代を滅亡に追い込んだため、賀氏は拓跋珪を連れて、河東を拠点とする姻戚・劉庫仁を訪ねました。
劉庫仁は居候の身である拓跋珪と賀氏を保護し、拓跋珪は不自由のない生活を送りましたが、384年10月に劉庫仁が亡くなると、生活が一変。
後継ぎ争いが起きたため、賀氏は拓跋珪を連れて、自らの出身である賀蘭部に逃げました。
北魏を建国する
386年、賀蘭部で首領を決める会議が開かれました。
首領に選ばれたのは、なんと拓跋珪。
擁立された拓跋珪は自ら代王と称し、都を盛楽(内モンゴル自治区フフホト市)に定めました。
黄河以北を支配下におく
拓跋珪は敵対部族や柔然、奚、高車などの他民族を攻撃し、匈奴系の部族を平定しました。
平定したといっても、これまで敵対してきた部族や攻撃を受けた他民族皆が、北魏にすんなりと従ったわけではありません。
北魏に対して不満を抱いた民が各地で反乱を起こしたため、拓跋珪は長孫嵩に命じて、反乱を鎮圧させました。
これにより、北魏に従う民が増え、北魏の人口及び家畜は急増しました。
国内が安定し、国力を高めた拓跋珪は、国外に目を向けるようになり、中原に進出する機会をうかがっていました。
396年4月、後燕の初代皇帝・成武帝(慕容垂)が亡くなると、後燕を滅ぼすチャンスだと判断した拓跋珪は40万人の兵を率いて進軍。
翌年397年には、黄河以北を支配下におきました。
即位する
398年、拓跋珪は都を盛楽から平城(山西省大同市)に移し、皇宮を建設して、北魏の初代皇帝・道武帝として即位しました。
第2皇子・拓跋紹に殺される
これまでの北魏では、諸民族が協議して物事を決めてきましたが、即位した道武帝は自ら決断を下し、中央集権体制を築き上げました。
また、漢民族の文化や風習を積極的に取り入れたり、仏教を奨励したりして、民の心を掴もうと努力しました。
ところが、お酒を大量に飲んだり、また、道士が調合した薬を多く服用したりするようになり、道武帝は精神を患ってしまいました。
側近に暴力を振るったり、側室・賀夫人を幽閉して殺そうとしたりしました。
つまり、道武帝は叔母を側室に迎えていました。
自分が殺される運命だと悟った賀夫人は、見張り役の宦官を通じて、道武帝の第2皇子・拓跋紹に助けを求めました。
賀夫人の命の危険を感じた拓跋紹は、道武帝の寝室に忍び込みました。
目を覚ました道武帝は慌てて武器を取ろうとしましたが間に合わず、拓跋紹に殺され、409年、38歳で崩御しました。
まとめ
道武帝(拓跋珪)の生涯を紹介しました。
劉庫仁や賀蘭部に身を寄せて、幼少期を過ごすも、魏王となって、北魏を建国した道武帝。
道武帝は匈奴系の部族を平定したり、後燕を積極的に攻撃したりして、黄河以北を支配下におきましたが、晩年には、お酒や道士が調合した薬に溺れ、第2皇子・拓跋紹に殺されてしまいました。
38歳でこの世を去った道武帝。
北魏の建国者として、まだまだやりたいことがあったのではないでしょうか。
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