わずか4歳で即位した北魏の第8代皇帝・孝明帝。
その人生は、実母・胡太后に翻弄され続けました。
実母・胡太后(霊太后)に毒殺された孝明帝(元詡)の生涯を紹介します。
皇太子に冊立される
孝明帝は510年生まれで、北魏の第7代皇帝・宣武帝(元)と側室・胡氏の間に第3皇子として誕生しました。
名前は元詡(げんく)といいます。
第3皇子である元詡には、2人の兄がいましたが、2人共幼くして亡くなっていました。
そのため、512年、元詡は2歳で皇太子に冊立されました。
即位する
515年、宣武帝が33歳の若さで崩御し、元詡は第8代皇帝・孝明帝として即位することとなりました。
この時、孝明帝はわずか4歳。
4歳で政治を取りしきることは当然できず、親戚にあたる元雍や元澄が孝明帝をサポートしました。
実母・胡太后の独裁政治が始まる
元雍や元澄にサポートされ、朝廷を運営していた孝明帝。
ところが、母・胡氏が皇太后に冊立されると、胡太后は元雍や元澄を排除し、摂政として孝明帝に代わって政治を行うようになりました。
叔父・元叉を排除する
胡太后は妹の夫・元叉を侍中に任命して重用し、朝廷を身内で固めて、独裁体制を築きました。
ところが、元叉は権力を利用して胡太后を幽閉し、元雍と共に孝明帝をサポートする元の体制に戻します。
突然権力と自由を奪われた胡太后は、孝明帝と離れ離れになったことを嘆いて、「出家して朝廷から遠ざかるから、幽閉生活から解放してほしい」と訴えました。
幼くして父・宣武帝を失った孝明帝にとって、胡太后は唯一頼ることのできる存在。
子どもと一緒に過ごすことのできない日々を悲しむ胡太后に胸を打たれた孝明帝は、胡太后と共に、元叉を排除する計画をたてました。
この頃丁度、元叉に逆風が吹きます。
523年、国の漢化政策により長年たまっていた不満が爆発。
北魏建国当初は優遇されていた者達が、漢化政策を受けて冷遇されるようになり、沃野鎮の破六韓抜陵を筆頭に、六鎮に拠点を置いていた者が反乱を起こしました。
六鎮の乱に乗じて、国に不満を抱いていた者が南朝・梁に亡命するなど、国内は混乱に陥りました。
国内が混乱に陥ったのは、元叉が行ってきた政治に原因があるとして、元叉を支持する者が減り、胡太后の復帰を願う者が大勢現れました。
情勢が味方したこともあり、525年4月、孝明帝と胡太后は元叉の排除に成功しました。
胡太后に毒殺される
元叉を排除した後、胡太后は朝廷に再び戻り、これまで以上に強く実権を握りました。
でも、この時、孝明帝は既に19歳。
元雍や元叉によるサポートを受けてきたこともあり、自ら政治を行う力は身についていました。
528年2月、自ら政治を行いたかった孝明帝は、胡太后がいつまでも朝廷に居座っているのはおかしい、子どもの能力を信じていないのではないかとして、車騎将軍・爾朱栄に相談しました。
孝明帝は爾朱栄の娘を側室に迎えていました。
爾朱栄としても、娘の嫁いだ孝明帝が政治の表舞台に立ち、実権を握って皇帝として力を発揮したほうが都合がいいはず。
そう考えた孝明帝は爾朱栄に相談しやすかったんです。
ところが、孝明帝の企みが胡太后にバレてしまいます。
いつか邪魔者扱いされる日が来るのではないかと、胡太后も気付いていたのかもしれません。
排除される前に排除してしまおうと、胡太后は孝明帝の食事に毒を盛り、孝明帝を毒殺。
孝明帝は19歳の若さで崩御しました。
その後、間髪入れずに、元姑娘を皇帝として即位させましたが、元姑娘が女の子であることはすぐにバレてしまいます。元姑娘に代わって、胡太后は孝明帝の従甥・元釗を幼主として即位させ、再び実権を握りました。
まとめ
実母・胡太后(霊太后)に毒殺された孝明帝(元詡)の生涯を紹介しました。
実母・胡太后に殺された孝明帝。
幽閉された胡太后の親子離れ離れになったことを嘆いたのが本心からだったのか、幽閉生活を早く終えたいという気持ちからだったのかは分かりませんが、孝明帝が胡太后に利用され続けた生涯を送ったことに違いはありません。
胡太后を幽閉生活から救った孝明帝。
胡太后に毒を盛られたと知った時、孝明帝はどんな気持ちだったのでしょうか。
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