【梁】自ら即位を宣言し、元帝(蕭繹)に対抗した蕭紀

梁の第4代皇帝・元帝(蕭繹)を差し置いて、成都で自ら即位を宣言した蕭紀。

蕭紀とは、どのような人物なのでしょうか。

蕭紀の生涯を紹介します。

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蕭繹の協力要請に応じない

蕭紀は508年生まれで、梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)と側室・葛修容の間に第8皇子として誕生しました。

548年8月、侯景の乱が勃発。

兄・蕭繹から侯景の討伐に協力するよう要請されましたが、蕭紀は要請に応じず、都・建康が陥落する、また、武帝が崩御するのを黙って見ていました。

成都で自ら即位を宣言する

549年6月に武帝が崩御し、その後、551年11月に第2代皇帝・簡文帝(蕭綱)が崩御。

侯景によって、武帝のひ孫・蕭棟が擁立されましたが、蕭紀は蕭棟を皇帝として認めず、552年5月、成都(四川省成都市)で自ら即位を宣言しました。

自ら皇帝を称しただけで、正式な手続きを経て即位したわけではないので、梁の皇帝には数えられていません。

蕭繹に殺される

蕭紀が滞在していた成都は、建康から1700kmも離れていて、蕭紀は建康の状況を詳しく掴めていませんでした。

552年3月には、蕭繹が侯景を討ち、反乱を鎮圧していましたが、蕭紀の長男・蕭円照は侯景が蕭繹に討たれたことを報告せず、蕭繹は侯景に討たれたと嘘をつきました。

おゆう
おゆう

蕭円照の嘘を信じた蕭紀のもとに、蕭繹と西魏の大将軍・尉遅迥の率いる連合軍が攻めてきました。

蕭円照が嘘をついていたことを知った蕭紀は蕭円照を責めましたが、吐谷渾と協力して、西魏を攻めることにしました。
また、車騎将軍・楊乾運を蕭繹のいる江陵に派遣し、蕭繹を攻撃させました。

坊っちゃん
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ところが、吐谷渾は西魏に敗北し、楊乾運は降伏。

吐谷渾の後ろ盾を失った蕭紀は蕭繹が派遣した軍に包囲され、553年7月、捕らわれて殺されました。

蕭紀に嘘をついた蕭円照は蕭繹に捕らわれ、幽閉生活を送り餓死しました。
蕭紀の5男・蕭円粛は西魏に帰順し、西魏、北周、隋に仕えました。

まとめ

蕭紀の生涯を紹介しました。

建康から遠く離れた成都に滞在し、建康の状況に疎かった蕭紀。
兄・蕭繹が生きているとは知らず、成都で自ら即位を宣言し、1年後には蕭繹に捕らえられて殺されました。

蕭円照が「蕭繹が亡くなった」と嘘をついたことにより、蕭紀の人生は大きく狂ってしまいましたが、蕭繹の生死に関係なく、多くの兄を差し置いて即位を宣言した蕭紀は命を狙われる運命だったのかもしれませんね。

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