【梁】武帝(蕭衍)の側室・呉景暉ってどんな人?蕭綜の実の父親は?

斉の第6代皇帝・東昏侯(蕭宝巻)の側室・呉景暉は、斉が滅亡した後、梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)の側室となりました。

二人の皇帝の側室となった呉景暉とは、どのような人物なのでしょうか。

武帝(蕭衍)の側室・呉景暉の生涯と蕭綜の父親の正体を紹介します。

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武帝(蕭衍)の側室・呉景暉ってどんな人?

まずは、武帝(蕭衍)の側室・呉景暉の生涯をみていきましょう。

武帝の側室となる

呉景暉は斉の第6代皇帝・東昏侯(蕭宝巻)の側室でした。

東昏侯は正妻・褚皇后(褚令璩)を寵愛せず、側室の潘貴妃(潘玉児)を最も寵愛しましたが、呉景暉も寵愛を受けて蕭綜を身ごもりました。

おゆう
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ところが、501年12月、東昏侯は蕭衍に殺されてしまいました。

蕭衍が斉を滅ぼし、梁を建国して、初代皇帝・武帝として即位すると、呉景暉は武帝の側室として後宮に迎えられました。

蕭綜を出産する

東昏侯が崩御してから7ヶ月が経った502年7月、呉景暉は蕭綜を出産しました。

蕭綜に真実を打ち明ける

武帝には呉景暉を含めて6人の側室がいました。
やがて、蕭衍から寵愛を受けなくなった呉景暉は、蕭綜に実の父親が蕭宝巻であることを打ち明けました。

おゆう
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武帝の第2皇子として育てられた蕭綜は、今の地位、生活を守るために口外せず、真実を知らないふりをしました。

523年、使持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・平北将軍・南兗州刺史に任命された蕭綜は、北魏に叔父・蕭宝寅が亡命していることを知りました。
蕭綜は北魏に使者を送って、蕭宝寅と連絡を取ろうと試みるようになりました。

蕭綜が北魏に亡命する

525年、北魏の徐州(江蘇省徐州市)刺史・元法僧が梁に帰順しました。

蕭綜は徐州都督に任命され、彭城(江蘇省徐州市)に赴任することになりました。

彭城は北魏が統治していた地域。
つまり、梁と北魏の国境にあたります。

北魏にいる蕭宝寅に会いたかった蕭綜は、信頼できる数人の兵を引き連れて北魏に亡命しました。

蕭宝寅を頼り、北魏で司空となって、蕭賛と改名しました。

庶人に落とされる

蕭綜の父親が東昏侯だったこと、蕭綜が北魏に亡命したことを知った武帝は、真相を隠し続けていた呉景暉を庶人に落としました。

おゆう
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でも、蕭綜を第2皇子として育ててきた武帝にとって、蕭綜が大事な皇子であることは変わりません。

武帝は蕭綜を取り戻そうと、蕭綜が子どもの頃に着ていた服を北魏に送り、呉景暉を説得に遣わしました。
でも、蕭綜が梁に戻ることはありませんでした。

再び側室となるも毒死する

説得に失敗したものの、武帝は呉景暉を許し、側室として後宮に再び迎えましたが、間もなく毒死しました。

自ら毒を飲んだのか、誰かに毒を盛られたのかは不明です。

蕭綜の実の父親は?

紹介したように、蕭綜は武帝の第2皇子として育てられましたが、東昏侯の皇子です。

呉景暉から真実を告げられた後も、蕭綜は真実を知らないふりをしましたが、わざわざ夜に馬に乗って出かけたり、人に裸を見せたりと、皇子にふさわしくない行動を取りました。
また、祖父にあたる斉の第5代皇帝・明帝(蕭鸞)や東昏侯の墓参りをしているうちに、武帝を恨むようになりました。

呉景暉が告げた真実は、呉景暉が想像していた以上に、蕭綜の心にダメージを与えたのかもしれませんね。

まとめ

武帝(蕭衍)の側室・呉景暉の生涯と蕭綜の父親の正体を紹介しました。

蕭綜は梁の初代皇帝・武帝の第2皇子として育てられましたが、実の父親は斉の第6代皇帝・東昏侯(蕭宝巻)です。

呉景暉が蕭綜に真実を告げなければ、蕭綜が北魏に亡命せず、武帝のもとで活躍し続けたかもしれませんね。

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