宋、斉に仕えた王琨は名門貴族・王氏の出身でありながら、身内びいきしない真面目な性格でした。
王琨の生涯、真面目な性格が分かる5つのエピソードを紹介します。
王琨ってどんな人?
王琨は399年生まれで、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)出身。
つまり、王琨は王導のひ孫にあたります。
王琨が生まれた後、王懌は他の女性を正妻として迎えましたが、正妻との間に子どもを授からなかったため、王琨を後継ぎにしました。
王琨は幼い頃から真面目で、家族はもちろん、親戚からも大事に育てられました。
尚書吏部郎となる
420年頃、東晋で軍人として大活躍した桓修の娘と結婚し、郎中・駙馬都尉・奉朝請に任命されました。
424年、従兄・王華が宋の第3代皇帝・文帝(劉義隆)の信任を受けて権力を握ると、王華の推薦を受けて、王琨は尚書儀曹郎・州治中に任命されました。
その後、左軍諮議に昇進し、録事を兼任。
また、宣城郡(安徽省宣城市)太守、義興郡(江蘇省宜興市)太守となった後、都・建康に呼び戻されて北中郎長史・黄門郎となりました。
454年、尚書吏部郎に任命され、人事に携わりました。
度支尚書となる
456年、持節・都督広交二州諸軍事・建威将軍・平南将軍・平越中郎将・広州(広東省広州市)刺史に任命され、広州に赴任しました。
84歳で亡くなる
472年、宋の第6代皇帝・明帝(劉彧)が崩御すると、王琨は都督会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・左軍将軍・会稽郡太守に任命されました。
476年には特進の位を加授され、477年、宋の第8代皇帝・順帝(劉準)が即位すると、右光禄大夫となりました。
といっても、王琨を右光禄大夫に任命したのは順帝本人ではありません。
順帝は469年生まれで、即位した当時はわずか8歳。
順帝を擁立した蕭道成が実権を握っていました。
479年、蕭道成が順帝に禅譲を迫り、蕭道成は斉を建国して、初代皇帝・高帝として即位すると、王琨は右光禄大夫として高帝に仕えることになりました。
その後、武陵王師を兼任し、侍中の位を加授されましたが、482年、病を患い84歳で亡くなりました。
真面目な性格が分かる5つのエピソード
王琨は仕事に、異性に真面目な人物。
王琨の真面目な性格が分かる5つのエピソードを紹介します。
公正な人事を行った
454年、王琨が尚書吏部郎に任命されると、王琨のもとに高官がやってきて、親戚を登用するよう要求しました。
高官の要求を受け入れて親戚を登用すれば、王琨の昇進は間違いありません。
でも、王琨は要求を受け入れず、地位がある程度高い者から優秀な人材を登用しました。
また、宋の初代皇帝・武帝(劉裕)の第5皇子・劉義恭が知り合いを登用するよう要求しましたが、王琨は登用しませんでした。
収奪しなかった
456年に王琨が任命された広州刺史という役職は、民から税や賄賂を取り立てやすく、在任中に3000万は得られるといわれていました。
ところが、王琨は民から税や賄賂と取り立てることはしませんでした。
親戚でも容赦しなかった
465年、王琨が度支尚書に任命された頃、従兄・王華の孫・王長が王華の爵位である新建侯を継ぎました。
紹介したように、王琨を尚書儀曹郎・州治中に推薦したのは王華。
ところが、王長はお酒で失敗することが多く、王琨は王長を重用しないよう上奏しました。
王琨はお酒で失敗することはありませんでしたが、宴会で妓女から盃を受け取ることを嫌がり、男性を通じて盃を受け取っていました。
照れ屋さんだったのかもしれませんね。
先例を用いて反論した
朝廷で意見がぶつかると、王琨は先例を用いて反論しました。
先例を用いて意見を述べる王琨に同意する大臣が多く、皇帝から厚く信頼されていた大臣も黙るほどでした。
高帝(蕭道成)に敬意を払って亡くなった
紹介したように、王琨は482年に84歳で亡くなりましたが、同じ482年に亡くなった人物がいます。
高帝(蕭道成)です。
高帝が崩御すると、王琨は輿に乗らず数kmを歩いて入朝しました。
84歳で数km歩き続けるなんて、普段から歩き慣れていなければできません。
王琨が亡くなった原因は、歩き過ぎたことが関係しているといわれています。
まとめ
王琨の生涯、真面目な性格が分かる5つのエピソードを紹介しました。
王琨は宋の初代皇帝・武帝(劉裕)の第5皇子・劉義恭の頼みを断って公正な人事を行ったり、従兄・王華の孫・王長の素行の悪さを理由に重用しないように上奏したりと、真面目に仕事に取り組みました。
また、王琨が亡くなった原因は、高帝(蕭道成)に敬意を払い歩き過ぎたことが関係しています。
王琨は真面目で、義理堅い人だったんですね。
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