【宋】最後の皇帝・順帝(劉準)と蕭道成に行った禅譲

420年に建国され、479年に滅亡した宋。
60年の間に、8人の皇帝が即位しましたが、最後に即位したのはわずか8歳の皇帝でした。

順帝劉準)の生涯、蕭道成に行った禅譲を紹介します。

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順帝(劉準)ってどんな人?

順帝(劉準)はどのような人生を送ったのでしょうか。

明帝の第3皇子として生まれる

順帝は469年生まれで、第6代皇帝・明帝(劉彧)と側室・陳昭華の間に第3皇子として誕生しました。

順帝が誕生する前から、明帝は病を患っていて、身体を自由に動かすことができませんでした。
国のトップである皇帝は、身体が不自由であっても、できるだけ多くの子孫を残す必要があり、明帝は弟の妻や愛人が出産した子どもを自分の実子として宮廷に迎えました。そのため、順帝の実の父は明帝ではなく、明帝の弟・劉休範だといわれています。

名前は劉準といいます。

8歳で即位する

兄である第7代皇帝・後廃帝(劉昱)は気に入らない官吏はもちろん、何の罪もない民まで手当たり次第に殺す暴政を敷きました。

禁軍を掌握していた中領軍・蕭道成は後廃帝を殺すと、477年、当時揚州(江蘇省揚州市)刺史を務めていた劉準を第8代皇帝・順帝として即位させました。

お嬢ちゃん
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即位当時、順帝はわずか8歳。

実際に朝廷を牛耳っていたのは蕭道成で、蕭道成に反感を抱いた車騎大将軍・荊州(湖北省荊州市)刺史の沈攸之と司徒の袁粲は挙兵しましたが、あっという間に、蕭道成に鎮圧されてしまいました。

10歳で亡くなる

479年4月、即位する準備を整えた蕭道成は、順帝に禅譲を迫り、宋を滅ぼして、斉を建国。
斉の初代皇帝・高皇帝として即位しました。

おゆう
おゆう

この時、劉準は10歳でしたが、これから自分の身に何が起きるかを理解していました。

高皇帝の側近・王敬則が兵を率いて、劉準のもとを訪れました。
劉準は仏像の天蓋に隠れましたが見つかり、神輿に乗せられました。

全てを悟った劉準は「生まれ変わっても、皇族には生まれたくない」と言いました。
そして、劉準は王敬則の手を握り、「もし、私が無事に生き延びることができたら、10万銭を与えよう」と言って、神輿を降りました。

神輿を降りた劉準は汝陰王に封じられ、丹陽宮に移されましたが、高皇帝の監視から逃れることはできませんでした。

5月、丹陽宮の馬が激しく鳴き、劉準は挙兵しようとしているのではないかと疑われてしまいました。
殺す理由を探していた高皇帝は、劉準がクーデターを企んだとして、劉準を処刑し、劉準はこの世を去りました。

明帝の崩御後、明帝の正妻・王貞風は皇太后となりましたが、劉準と共に丹陽宮に移されました。
劉準が亡くなると、王貞風は都・建康に自宅を構えて移りましたが、その年のうちに44歳で亡くなりました。

蕭道成に行った禅譲

高皇帝(蕭道成)が派遣した側近・王敬則により、劉準は神輿に乗せられましたが、何故、劉準は呼び出されたのでしょうか。

おゆう
おゆう

実は、高皇帝が劉準に迫った禅譲は、420年に宋の初代皇帝・武帝が東晋の最後の皇帝・恭帝に行った禅譲を真似たもの。

神輿に乗った劉準が「私をどこに連れて行くのか」と尋ねると、王敬則は「陛下(高皇帝)のもとへお連れして、宋の初代皇帝・武帝(劉裕)が東晋の第11代皇帝・恭帝(司馬徳文)から禅譲された時と同じようにするだけです」と答えました。

419年、東晋で実権を握った劉裕は第10代皇帝・安帝(司馬徳宗)を暗殺し、安帝の弟・司馬徳文を擁立して、恭帝として即位させました。
その翌年、420年には、恭帝に禅譲を迫り、宋を建国して、初代皇帝・武帝として即位しました。
更にその翌年、421年には、恭帝を殺しました。
劉準が殺されるところまで、武帝の行動を真似たんですね。

まとめ

順帝劉準)の生涯、蕭道成に行った禅譲を紹介しました。

わずか8歳で、宋最後の皇帝に即位させられ、10歳で禅譲させられて殺された劉準。

宋を建国した初代皇帝・武帝(劉裕)が東晋の第11代皇帝・恭帝(司馬徳文)に禅譲させた時と同じように、劉準は高皇帝(蕭道成)に禅譲させられました。

8歳といえば小学3年生、10歳といえば小学5年生です。
幼いにも関わらず、自分の身に何が起きるかを理解していたなんて、胸が締め付けられますね。

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