416年、東晋で宋公に封じられた劉裕は、皇帝を凌ぐほどの権力を手にしたにも関わらず、司馬徳文をわざわざ擁立しました。
武帝(劉裕)が東晋の恭帝(司馬徳文)を擁立して即位した経緯を紹介します。
予言を信じた
劉裕は「昌明の後なお二帝有り」という予言を信じていました。
昌明とは東晋の第9代皇帝・孝武帝の字。
孝武帝が崩御した後、孝武帝の第1皇子・司馬徳宗が第10代皇帝・安帝として即位しました。
もし、予言が正しいとすれば、安帝の後にもう一人、皇帝が即位することになります。
劉裕は自ら即位する前に、予言に従って、孝武帝の第2皇子・司馬徳文を擁立して即位させ、予言どおりになるよう事を運びました。
地位を対等にした
東晋で確固たる地位を築いた劉裕。
でも、一家心中しようとした父・劉翹に育てられたという、貧しい生活を送った幼少期は消えません。
そこで、劉裕は恭帝と地位を対等にするために、長男・劉義符(後の宋の第2代皇帝・少帝)と恭帝の第1皇女・海塩公主(司馬茂英)を結婚させました。
子どもと皇族が結婚することで、両家の社会的地位が対等となり、劉裕自ら即位することについて周囲から異論を唱えられない環境を整えました。
419年7月、劉裕の爵位は宋公から宋王となりました。
劉裕は既に東晋の実権を握っていましたが、皇帝の一つ下の地位・王となった劉裕は皇帝に更に近づきました。
傅亮から勧められた
宋王に封じられた劉裕は、恭帝に禅譲を迫る時がやってきたと思いましたが、自ら言い出す勇気がありませんでした。
そこで、宴会の席で、劉裕は「陛下(恭帝)には朝廷から離れて、気ままな生活を送っていただきたいと思っているのだが、皆はどう思うか」と尋ねました。
ところが、劉裕の尋ね方がさり気なかったためか、お酒が入っていたためか、皆、恭帝の禅譲には触れず、劉裕の過去の功績を称えるばかりでした。
意見をもらえないまま、宴会は終わりを迎え、劉裕はやきもきしました。
すると、傅亮が劉裕のもとを訪ねてきました。
宴会からの帰り道、夜風に当たって酔いのさめた傅亮は「劉裕は意見を待っていたのではないか」と気付き引き返したんです。
傅亮は「都に行く」とだけ言って、劉裕のもとを去り、劉裕は傅亮の考えを察して、数十人の兵を与えて送り出しました。
恭帝は傅亮の作った草案を丁寧に書き写し、禅譲の詔勅を出しました。
420年7月、劉裕は恭帝から禅譲され、宋を建国して、初代皇帝・武帝として即位しました。
まとめ
武帝(劉裕)が東晋の恭帝(司馬徳文)を擁立して即位した経緯を紹介しました。
予言を信じた武帝は、長男・劉義符と恭帝の第1皇女・海塩公主を結婚させて、劉氏と司馬氏の地位を対等にしたうえで即位しました。
即位に賛同した傅亮の存在も大きかったと思います。
豪快な性格でありながら、慎重に慎重を重ねた武帝。
武帝は意外と小心者だったのかもしれませんね。
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