【宋】東晋を滅ぼした武帝(劉裕)ってどんな人?

中国の南北に、それぞれ王朝が建てられた南北朝時代。
南朝には、宋、斉、梁、陳の4王朝が建てられましたが、最初の宋を建国したのが武帝(劉裕)です。

武帝とは、どのような人物なのでしょうか。

武帝(劉裕)の生涯を紹介します。

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生後すぐに母を亡くす

劉裕は363年生まれで、南徐州晋陵郡(江蘇省鎮江市)の出身。

劉翹と東晋の平原太守・趙裔の娘である趙安宗の間に誕生しました。

母・趙安宗は産後の肥立ちが悪く、劉裕を出産するとすぐに亡くなりました。

父・劉翹は乳母を雇おうと考えましたが、生きるのに精一杯の貧しい生活を送っていて、乳母を雇うような経済的余裕がありませんでした。
子育てを諦めた劉翹は、劉裕と共に一家心中をしようとしていたところ、第2子を出産したばかりの趙安宗の姉が通りがかり、乳母となって劉裕を育てました。

おゆう
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その後、劉翹は蕭文寿と再婚し、劉道憐と劉道規を授かりましたが、373年に劉翹は亡くなりました。

劉裕は継母・蕭文寿と異母弟2人を養わなければならず、所有していた田んぼで農業に励み、また、草履を作って、お金を稼ぎました。

坊っちゃん
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将来皇帝になるなんて想像できない幼少期ですね。

孫恩の乱を鎮圧する

399年、道教教団・五斗米道の孫恩が反乱を起こし、劉裕は東晋の北府軍・劉牢之のもとで手柄を立てて、建武将軍に抜擢されました。

お嬢ちゃん
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五斗米道って、醤油とお米を連想するような教団名ですね。

401年、再び挙兵した孫恩を撃退し、孫恩を自害に追い込みました。

桓玄を倒して安帝を復位させる

402年、東晋の西府軍・桓玄が都・建康を制圧し、桓玄が北府軍の実権を握りました。
劉裕にとって上司だった劉牢之は孤立して自害し、劉裕は桓玄に降伏しました。

403年、桓玄は東晋の第10代皇帝・安帝(司馬徳宗)を廃して、桓楚を建国して即位しました。

桓玄から気に入られた劉裕は宴会に度々招待され、贈答品を与えられました。

おゆう
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ところが、404年、劉裕は桓玄に反旗を翻し、1700人と共に挙兵しました。

桓玄軍に比べて、兵の数が少なかったにも関わらず、劉裕は勝利を重ねて、桓玄を倒し、幽閉されていた安帝を復位させました。

桓玄は殺され、桓楚は建国からわずか3ヶ月で滅亡しました。

劉裕は鎮軍将軍・都督十六州諸軍事に昇進し、東晋で権力を拡大しました。

南燕を倒す

409年、南燕が東晋に侵入し、略奪を繰り返しました。

南燕を討伐するのには年数がかかると言って、周囲は大反対しましたが、劉裕は反対を押し切って討伐に向かいました。
周囲の言うとおり、南燕の都・広固城を陥落するのに1年かかりましたが、南燕の討伐に成功しました。

盧循を倒し、五斗米道の乱を終結させる

劉裕が南燕を討伐している間に、五斗米道の盧循が豫章(江蘇省揚州市)で鎮南将軍・何無忌を殺しました。

劉裕は南燕の鮮卑人3000人を生き埋めにしたり、兵を石頭城に集めて、逆らった者を処刑したりして、軍を統制。
411年、劉裕は盧循軍を討伐して、太尉に昇進しました。

東晋で権力を更に拡大した劉裕は、411年から415年にかけて、謝混や劉毅、諸葛長民、司馬休之などの敵対勢力を排除しました。

後秦を倒す

416年、後秦で兄弟間の権力争いが繰り広げられていたため、この機会に、後秦を討伐することにし、417年8月、劉裕は後秦を滅亡に追い込みました。

功績を称えられた劉裕は宋王に封じられることが検討されていましたが、劉裕は辞退しました。
劉裕の謙虚さに感銘を受けた安帝は、劉裕に相国の官位と九錫を与えました。

宋を建国し即位する

敵対勢力を排除し、安帝の絶大な信頼を得て、東晋で実権を握った劉裕。

おゆう
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劉裕の国のトップに立つ準備が整いました。

劉裕は中書侍郎・王韶之に安帝の暗殺を命じ、王韶之は安帝に毒を渡して殺しました。

繋ぎとして、安帝の弟・司馬徳文を第11代皇帝・恭帝として即位させましたが、420年6月、劉裕は宋を建国して、自ら初代皇帝・武帝として即位しました。

421年9月に、恭帝は殺されました。

即位後2年で崩御する

58歳で即位した武帝。
国のトップに立った武帝の悩みの種は後継者でした。

武帝には7人の皇子と8人の皇女がいましたが、正妻・臧愛親との間に皇子を授からず、側室・張夫人との間に授かった第1皇子・劉義符も15歳になったばかり。
側室・呂美人との間に授かった第7皇子・劉義季はわずか6歳で、皇子を地方の長官に任命するとしても、それぞれに有能な官吏を付き添わせなければいけませんでした。

おゆう
おゆう

例えば、407年生まれで、当時13歳だった第3皇子・劉義隆には、王曇首や王華を付き添わせて、荊州刺史に任命しました。

皇子を地方の長官に任命しても、実際に政務を行っているのは付添人で、宋の体制は脆弱なものでした。
また、武帝は兄弟が少なく、周囲に信頼できる人がいませんでした。

422年3月、昔受けた古傷がもとで病を患いました。
徐羨之や謝晦、檀道済は「回復のために祈願したい」と申し出ましたが、武帝はきっぱり断り、徐羨之、謝晦、檀道済、傅亮の4人に、皇太子・劉義符を補佐するよう命じました。

その後、武帝は劉義符を呼び出し、「4人に補佐を命じたが、一緒に戦ってきた謝晦は野心を抱いているかもしれないから、会稽(浙江省紹興市)に左遷するのがいい」と言いました。

おゆう
おゆう

武帝の目の前で、謝晦は堂々と「劉義符は皇帝の器ではない」と発言していたんです。

422年5月、武帝は59歳で崩御しました。

第2代皇帝・少帝として即位した劉義符は、徐羨之、謝晦、檀道済、傅亮によって廃されたうえに殺され、劉義隆が擁立されました。
謝晦の野心を見抜くことはできましたが、謝晦以外の徐羨之、檀道済、傅亮の3人が劉義符を廃し、劉義隆を擁立することまでは、流石に見抜けませんでした。

まとめ

武帝(劉裕)の生涯を紹介しました。

乳母を雇う経済的余裕もない過程で生まれ育った武帝は、東晋で武力を活かして昇進し、ついには、東晋を滅ぼし、宋を建国して自ら即位しました。

当時は貴族が優遇される時代だったことを考えると、軍人上がりの武帝は並々ならぬ努力をしたんでしょうね。

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