今でこそ、中国で男女平等が謳われていますが、当然昔は男尊女卑の社会。
にも関わらず、南朝・宋には、「男性と同じように女性が愛人を抱えられないなんておかしい!」と訴えた皇女がいました。
男遊びが原因で処刑された山陰公主(劉楚玉)と夫・何戢を紹介します。
男遊びが原因で処刑された山陰公主(劉楚玉)
山陰公主は宋の第4代皇帝・孝武帝(劉駿)と王皇后の間に、第1皇女として誕生しました。
名前は劉楚玉といいます。
第1皇女なうえに、皇女の中でも特に美しかった山陰公主は、孝武帝からとても可愛がられて育ち、吏部尚書を務めた何偃(かえん)の子ども・何戢(かそう)と結婚しました。
464年、孝武帝が崩御し、弟・劉子業が第5代皇帝・前廃帝として即位すると、山陰公主は驚きの上奏をします。
にも関わらず、皇女が側室を抱えてはいけないなんて納得できません」
山陰公主は遠回しに愛人を抱えたいと申し出たんです。
皇后や皇女が愛人を抱えることは、皇室の信頼を損ないます。
ところが、前廃帝は山陰公主を叱るどころか、愛人にするよう美男子30人を山陰公主に贈りました。
前廃帝に感謝した山陰公主は、前廃帝が都を離れる時にはいつも付き添いました。
山陰公主を喜ばせたい前廃帝は、山陰公主に褚淵を贈りました。
褚淵は尚書左僕射・褚湛之の子どもで、臣下の中でも特に美男子でした。
でも、褚淵には妻子がいます。
他の愛人と同じように、山陰公主にずっと仕えることはできません。
そこで、褚淵は10日間の期限付きで山陰公主に仕えることとなりました。
褚淵を一目見て気に入った山陰公主は、愛人のように褚淵に接しました。
「私には女性を喜ばせる才能がないのに、どうして公主の要望に応じられるでしょうか」
と言って、山陰公主の誘いを断りました。
山陰公主に仕えることは前廃帝の命令。
褚淵は処刑される覚悟で、命を懸けて、山陰公主を拒み続けました。
山陰公主のプライドはズタボロだったに違いありません。
10日間の期限が訪れると、当初の予定通り、褚淵は山陰公主から離れることとなり、処刑されることもありませんでした。
465年11月、叔父・劉彧が前廃帝を殺して、第6代皇帝・明帝として即位しました。
山陰公主は愛人を抱え、皇室を失墜させたとして自害を命じられて亡くなりました。
山陰公主の夫・何戢
山陰公主と結婚した夫・何戢。
山陰公主は30人もの愛人を抱えていましたが、単なる男好きというわけではなく、山陰公主は何戢と一緒に過ごそうとしませんでした。
紹介したように、山陰公主は明帝によって処刑されました。
夫婦のどちらかが処刑されたら、配偶者も処刑されるのが一般的。
でも、何戢と山陰公主の夫婦生活は最初からうまくいっていなかったため、何戢が罪に問われることはありませんでした。
それどころか、山陰公主の扱いに耐えた何戢は明帝のもとで司徒従事中郎となりました。
466年、司馬に任命された後、黄門郎、東陽郡(浙江省金華市)太守などを歴任しました。
後廃帝は何戢を都に呼び戻して侍中に任命しました。
この時、後廃帝が都に呼び戻したのは何戢だけではありません。
なんと、山陰公主に10日間だけ仕えた褚淵も都に呼び戻されていたんです。
何戢と褚淵は朝廷に参与することとなり、毎日のように顔を合わせて、一緒に仕事をするようになりました。
妻に仕えた愛人と一緒に仕事をするなんて、気まずくて辞職願を出したくなりますよね。
でも、山陰公主との夫婦生活が最初から破綻していた何戢は、褚淵と一緒に仕事をすることに対して、不平や不満を抱きませんでした。
479年3月、以前から宋で大きな権力を握っていた蕭道成が、第8代皇帝・順帝(劉準)から禅譲を受けて、斉を建国しました。
蕭道成が初代皇帝・高帝として即位すると、何戢は散騎常侍の位を加授され、太子詹事となった後、侍中に任命されました。
王朝が宋から斉に移り変わっても、何戢は褚淵と仕事をすることとなり、二人の仲は兄弟のように深まりました。
482年、36歳で亡くなりました。
まとめ
男遊びが原因で処刑された山陰公主(劉楚玉)と夫・何戢を紹介しました。
弟・前廃帝から30人の美男子を愛人として与えられ、夫・何戢を顧みなかった山陰公主は、皇室を失墜させたとして、叔父・明帝から自害を命じられて亡くなりました。
一方、何戢は罪に問われることはなく、明帝、後廃帝、斉を建国した高帝に重用され、山陰公主に愛人として仕えた褚淵と一緒に仕事をしました。
何戢の懐の広さには驚きますね。
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