【宋】文帝(劉義隆)が築いた元嘉の治

宋の第2代皇帝・少帝(劉義符)の暴政、廃位により、朝廷は混乱に陥りましたが、間もなく全盛期を迎えました。

宋の第3代皇帝・文帝劉義隆)の生涯と築いた元嘉の治を紹介します。

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文帝(劉義隆)ってどんな人?

劉義隆は407年生まれで、宋の初代皇帝・武帝(劉裕)と側室・胡婕妤の間に、第3皇子として誕生しました。

368年生まれの胡婕妤は、39歳で劉義隆を出産しました。

現在では40歳前後に出産する女性が多くいますが、当時は18歳までに嫁ぐ女性がほとんどで、胡婕妤のように39歳で出産する女性はあまりいませんでした。

劉義隆を出産した2年後の409年、胡婕妤は懲戒され自害しました。

即位する

422年5月、武帝が崩御し、武帝の第1皇子・劉義符が第2代皇帝・少帝として即位しましたが、悪政を敷いたため、424年5月、司空・徐羨之によって退位させられました。
その後、徐羨之が派遣した中書舎人・邢安泰によって、少帝は殺されました。

崩御した少帝の後を継いで、劉義隆は第3代皇帝・文帝として即位しました。

即位後、文帝は少帝の退位、暗殺に加担した者を処刑しました。

429年、文帝は当時6歳だった第1皇子・劉劭を皇太子に冊立しました。

北伐に失敗する

431年1月、文帝は江州(江西省南昌市)刺史・檀道済に北魏を征討するよう命じ、檀道済は兵を率いて北魏に向かいました(北伐)。

北魏の領土内である歴城(山東省済南市)に到着したものの、兵糧不足となり、やむを得ず撤退。

文帝は北魏と和睦を結んで、停戦状態にもちこみました。

ところが、北魏が夏や北燕、北涼、仇池などを滅ぼし、華北を平定して、華北での勢力を拡大すると、450年、北魏は和睦を破棄して、宋に侵攻しました。

北魏軍は長江北岸にある瓜歩山(江蘇省南京市)までたどり着き、宋は一時滅亡の危機にさらされました。

幸い北魏軍が宋から撤退し、宋は滅亡せずに済んだものの、宋国内は混乱状態に陥ってしまいました。

皇太子・劉劭に殺される

453年、文帝のもとに、皇太子・劉劭が呪詛を行ったという報告が入りました。

おゆう
おゆう

まじないすら禁止されていた宮中で、呪詛を行うなんてもってのほか。

文帝は劉劭を廃位しようと思いましたが、文帝にとって、劉劭は大事な第1皇子で、文帝は廃位する決断をなかなか下すことができませんでした。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

文帝が廃位を悩んでいる間に、文帝が廃位を検討していることが劉劭に伝わってしまいました。

文帝は寝室に忍び込んだ劉劭によって殺され、46歳で崩御しました。

築いた元嘉の治

軍功を上げて出世し、皇帝にまで昇り詰めた武帝は、特に寒門出身者を登用し、実力主義を採用しました。

一方、文帝は王弘や王華、王曇首などの名門出身の貴族を重用し、宰相の在職年数の上限を延ばしました。

更に、文帝は儒学、玄素学、史学、文学の四学館を設立したり、貴族や官吏の子どもや兄弟が通う教育機関・国子学を復興したりしました。
文帝の行った教育改革により、武帝の滅ぼした東晋から宋に移った詩人・陶潜、謝霊運、顔延之が活躍しました。

おゆう
おゆう

文帝が教育改革を行っていなければ、優秀な詩人が埋もれてしまっていたかもしれませんね。

文帝の行ったさまざまな改革は文化の発展に繋がり、「元嘉の治」と呼ばれる宋の全盛期を迎えました。

二十四史の一つである「後漢書」が完成したのも、文帝の治世です。

まとめ

宋の第3代皇帝・文帝劉義隆)の生涯と築いた元嘉の治を紹介しました。

文帝は名門出身の貴族を重用したり、四学館を設立したり、国子学を復興したりして、宋の文化を発展させ、元嘉の治と呼ばれる全盛期を迎えました。

文帝は第1皇子・劉劭に殺されこの世を去りましたが、亡くなる間際に、実子に対してどのような想いを抱いたのかを想像すると切なくなりますね。

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