何邁と鄧琬のクーデターに巻き込まれたり、前廃帝(劉子業)に毒殺されそうになったりして、最期は明帝(劉彧)に殺された劉子勛の生涯を紹介します。
江州刺史になる
劉子勛は456年生まれで、宋の第4代皇帝・孝武帝(劉駿)と側室・陳淑媛の間に、第3皇子として誕生しました。
460年1月には、晋安王に封じられ、8月には、都督南兗州(江蘇省揚州市)徐州(江蘇省徐州市)之東海諸軍事や征虜将軍、南兗州刺史に任命されました。
463年1月には、都督江州(江西省九江市)南豫州(安徽省宣城市)之晋熙新蔡郢州之西陽三郡諸軍事や前将軍、江州刺史に任命され、464年1月には、使持節、都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事や鎮軍将軍、寧蛮校尉や雍州(陝西省西安市)刺史に任命されました。
官職名が長いですね。
8月、孝武帝が崩御し、孝武帝の第1皇子である兄・劉子業が、第5代皇帝・前廃帝として即位すると、江州刺史に再び任命されました。
何邁のクーデターに巻き込まれる
即位した前廃帝は、初代皇帝・武帝の第5皇子・劉義恭や権力を拡大した尚書左僕射・顔師伯などを殺し、自分を脅かす者を次々と排除しました。
前廃帝に反感を抱いた南済陰(山東省菏沢市)太守・何邁は、劉子勛を擁立して、前廃帝を廃するクーデターを起こそうとしました。
ところが、挙兵する前に、何邁の計画が前廃帝に漏れて、何邁は処刑されてしまいました。
劉子勛はクーデターに巻き込まれただけで、劉子勛自身に、簒奪の野心があったわけではありません。
でも、劉子勛を無罪放免にするわけにいかず、前廃帝は劉子勛に毒薬を送り、自害させることにしました。
自害から逃れる
前廃帝は左右侍従・朱景雲に毒薬を渡し、劉子勛に届けるように命令しました。
朱景雲は毒薬を持って都を出発し、湓口(江西省九江市)に到着すると、江州長史・鄧琬に、前廃帝が劉子勛を殺そうとしていることを伝えました。
朱景雲は劉子勛に毒薬を渡さず、また、何邁と同じように、鄧琬は劉子勛を擁立して、前廃帝を廃するクーデターを起こしました。
鄧琬のクーデターに巻き込まれる
ところが、鄧琬が前廃帝を廃する前に、第3代皇帝・文帝(劉義隆)の第11皇子であり、劉子勛の叔父に当たる劉彧が前廃帝を殺し、12月、第6代皇帝・明帝として即位しました。
前廃帝を廃するという目的は、劉彧によって達成されたものの、劉子勛を擁立している鄧琬は引き下がることができず、クーデターの目的を「明帝を廃すること」として挙兵しました。
即位するも、7ヶ月で殺される
466年1月、鄧琬によって、劉子勛は尋陽(湖北省黄岡市)で即位させられ、百官を置き、明帝と同じように朝廷を設けました。
わずか10歳の劉子勛は、鄧琬をはじめ、官吏の言うまま即位しただけです。
だからといって、皇帝を称している劉子勛を放っておくわけにはいきません。
明帝は兵を率いて、尋陽を攻めるように、冠軍将軍・沈攸之に命じました。
劉子勛は安北将軍・袁顗に全軍を任せ、沈攸之軍を撃退するように命じました。
ところが、明帝が派遣した龍驤将軍・張興世によって、袁顗軍と都を繋ぐ道が閉ざされ、袁顗軍は食糧や武器などを補給できなくなってしまいました。
敗北を悟った袁顗は逃亡し、8月、沈攸之は尋陽を陥落しました。
9月、沈攸之によって、劉子勛と母・陳淑媛は殺され、尋陽の南に位置する廬山(江西省九江市)に埋葬されました。
まとめ
何邁と鄧琬のクーデターに巻き込まれたり、前廃帝(劉子業)に毒殺されそうになったりして、最期は明帝(劉彧)に殺された劉子勛の生涯を紹介しました。
眼病を患っていた劉子勛は父・孝武帝から遠ざけられて育ち、南済陰太守・何邁や江州長史・鄧琬が起こしたクーデターに巻き込まれ、明帝に最期は殺されてしまいました。
クーデターに巻き込まれた劉子勛は当時9歳。
わずか9年間の生涯で、劉子勛はどのような時に幸せを感じたのでしょうか。
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