唐の第2代皇帝・太宗と妻・長孫皇后の間には、李承乾、李泰、李治の3人の皇子がいましたが、李承乾と李泰の2人が皇太子争いをし、太宗を悩ませてしまいました。
太宗も兄弟間で皇太子争いをしたからです。
何故、李承乾と李泰は皇太子争いをしたのでしょうか。
李承乾と李泰の人物像、皇太子争いをした理由と結果を紹介します。
李承乾と李泰ってどんな人?
皇太子争いをした李承乾と李泰は、どのような人物だったのでしょうか。
李承乾
太宗が即位した時、李承乾はわずか8歳で皇太子になりました。
頭が良く、太宗の期待どおりに政務をこなした李承乾は、太宗が都を離れる時には留守を任されました。
ところが、大人になるにつれ、李承乾は女性や遊びに夢中になってしまいました。
太宗は于志寧や孔穎達、令狐徳棻達に教育係を任せましたが、李承乾は注意された時だけ反省の色を見せ、その場をうまくしのぐ始末。
太宗から見放されるかもしれないと危機感を募らせると、自分の行動を改めずに、自分を注意する者を暗殺しようとし始めました。
李泰
李泰は李承乾より3つ年下の文学少年でした。
戦いは得意ではありませんでしたが、書に長けた太宗は李泰が文学を愛していることを喜びました。
638年、18歳の時に「括地志」という唐の行政区画を調査した書物の編纂に取りかかり、641年に550篇にも及ぶ大作を完成させ、太宗を感激させました。
皇太子争いをした理由
① 太宗が李泰を愛し過ぎ、李承乾が嫉妬した
② 李泰が皇太子の座を狙った
の2つです。
詳しくみていきましょう。
太宗が李泰を愛し過ぎ、李承乾が嫉妬した
李泰が「括地志」を完成させると、李泰に対する太宗の愛情は深まり、李承乾を超える手当を李泰に渡すようになりました。
太宗の臣下は「皇太子を大事にするべきだ」と、太宗にアドバイスしましたが、李泰への愛情は深まるばかりでした。
この頃、李承乾は足の病を患い、歩けなくなってしまいます。
李泰が皇太子の座を奪うのではないかと、李承乾は不安になってしまいました。
李泰が皇太子の座を狙った
太宗から可愛がられた李泰は、皇太子の座を狙い始めました。
李承乾の予感が的中したんです。
李承乾は称心という美男子を寵愛していたところ、李泰が太宗に告げ口し、太宗は称心を殺してしまいました。
称心を殺されたショックから、李承乾は朝廷に顔を出さなくなり、牛や馬を盗んで食べたり、突厥人の真似をしたりするなど、奇行に走り始めました。
ついには、李泰に刺客を放ち、李泰を殺そうとします。
暗殺は未遂に終わりましたが、李泰は官吏に賄賂を贈って、李承乾の悪い噂を流すようになり、皇太子争いは本格化しました。
皇太子争いの結果
李泰と皇太子争いをしていた李承乾ですが、太宗の側近・杜如晦の子ども・杜荷が「陛下を殺して、即位してしまえばいい」と言い出しました。
李承乾は杜荷の言うとおり、クーデターを計画しましたが、決行する前に計画が漏れ、李承乾は幽閉されました。
李泰は「皇太子は廃されて、自分が皇太子に選ばれるだろう」と確信しました。
でも、安心しきれず、李泰は弟・李治を脅迫しました。
また、「自分が亡くなったら、後継者は自分の子どもではなく李治にするから、皇太子にしてほしい」と太宗に頼み込みました。
太宗は李泰を皇太子にするつもりでしたが、側近・褚遂良は「自分の子どもを殺すなんてできるわけがない。もし、李泰を皇太子にするなら、李治を殺してから、李泰を皇太子にするべきだ」と言いました。
太宗に李治を殺すことなんてできるはずもなく、太宗は李治を皇太子に選びました。
李承乾は廃位した後、庶人に落とされ、黔州(重慶市彭水県)に流罪となり、645年、28歳で亡くなりました。
まとめ
李承乾と李泰の人物像、皇太子争いをした理由と結果を紹介しました。
李承乾はわずか8歳で皇太子になり、太宗の期待どおりに政務をこなしましたが、大人になるにつれ、女性や遊びに夢中になってしまいました。
やがて、自分を注意する者を暗殺するなどの奇行に走りました。
一方、李泰は李承乾より3つ年下の文学少年。
書に長けた太宗は文学を愛する李泰を可愛がりました。
太宗の李泰に対する寵愛は皇太子争いを招いてしまいました。
李承乾はクーデターを計画しましたが、計画が漏れて幽閉されました。
李泰は弟・李治を脅迫し、皇太子になろうとしましたが、李泰のこの行動を知った太宗は、李泰を幽閉した後、李治を皇太子に選びました。
病弱で優柔不断な李治は、側室に、後に正妻に迎えた則天武后に政権を握られてしまいます。
李承乾が奇行に走らず、皇帝になっていたら、唐はどのような時代を迎えていたのでしょうか。
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