【唐】4人の皇帝に仕えた郭子儀ってどんな人?生涯をわかりやすく解説

唐を代表する名将の一人・郭子儀。
郭子儀は唐の第9代皇帝・玄宗から、第12代皇帝・徳宗までの4代に仕えました。

郭子儀はどのような人物なのでしょうか。

郭子儀の生涯を7つに分けて紹介します。

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697年に生まれる

郭子儀は697年生まれで、華州鄭県(陝西省渭南市)の出身。

父・郭敬之は綏州、渭州、吉州、寿州刺史などを歴任しました。
郭敬之は従三品、正三品の職に就いていて、身分が決して低いわけではありません。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

むしろ、高いほうです。

でも、郭子儀の幼少期、青年期の記録は全く残っていません。
郭子儀の名前が史書に登場するのは、郭子儀が40歳を過ぎた頃です。

朔方節度右兵馬使に任命される

身長が190cmもあった郭子儀は、武挙(科挙の武官バージョン)に合格して士官になり、桂州都督府長史に任命されました。
その後、単于副都護府、安西副都護、北庭副都護を歴任しました。

749年、木刺山の横塞軍使に任命されました。

おゆう
おゆう

この時、郭子儀は安禄山の従兄・安思順や宰相・李林甫に仕えました。

横塞軍使の仕事はその土地を切り拓き、町を作ること。
でも、木刺山は人口が少なく、また、地形的に耕作に向いていませんでした。

坊っちゃん
坊っちゃん

つまり、木刺山は人が住む土地に適していなかったんです。

木刺山に町を作ることが難しいと判断した郭子儀は、永清柵の北にお城を造り、横塞軍を木刺山から移動させ、天徳軍と改称しました。

功績が認められた郭子儀は、天徳軍使と九原郡太守を兼任することになり、その後、朔方節度右兵馬使に任命されました。

功績を挙げ、昇進した郭子儀。
ところが、郭子儀の母・向氏が亡くなってしまいます。
郭子儀は職を離れ、実家に戻り、孝行に努めました。

朔方節度使に任命され、史思明から常山を奪還する

郭子儀が都に戻ったのは755年11月。

おゆう
おゆう

安禄山と史思明が反乱を起こしたため、二人を討伐するように命じられたんです。

郭子儀は衛尉卿(衛尉寺の長官)となって、朔方節度使を兼任。
756年4月、李光弼と共に、史思明軍を破り、制圧されていた常山(河北省石家荘市)を奪還しました。

安禄山軍の阿史那承慶を破る

反乱が起きた時、反乱に全く備えていなかった唐は劣勢でした。

郭子儀と李光弼の活躍により、唐が安禄山と史思明を破ることができるかと思いきや、宰相・楊国忠の上奏により、唐は勝利のチャンスを逃してしまいます。

おゆう
おゆう

唐には潼関(陝西省渭南市)という軍事の要地がありました。

安禄山と史思明が長安を攻めるには、潼関を通らなければいけません。

坊っちゃん
坊っちゃん

でも、潼関は馬と馬がすれ違えないほど狭く、安禄山軍が潼関を攻めると、待ち伏せしている唐が勝利することは確実でした。

そこで、潼関に赴任した哥舒翰は、潼関から出ず、安禄山軍が攻めるのを待つことにしました。

ところが、楊国忠は「哥舒翰が潼関から出ないのは、謀反を企んでいるからだ」と言いました。
楊国忠の言葉を信じた唐の第9代皇帝・玄宗は、哥舒翰に潼関から出て攻撃するように命令しました。

おゆう
おゆう

哥舒翰は拒絶しましたが、玄宗から命令されては従うしかありません。

哥舒翰は潼関から出たところ、待ち伏せしていた安禄山軍の将軍・崔乾祐に捕らえられてしまいました。
潼関は安禄山軍に奪われ、恐れた玄宗は皇太子・李亨を含む宗室と共に、蜀(四川省成都市)に逃げました。

756年7月、蜀へ向かう道中、玄宗の側室・楊貴妃、楊国忠を含む楊氏一族に不満を抱いていた龍武大将軍・陳玄礼が、馬嵬(陝西省咸陽市)で、楊氏一族を殺しました。

寵愛していた楊貴妃を失った玄宗は悲しみに暮れ、安禄山と史思明の反乱の鎮圧を李亨に任せて、蜀へ向かいました。

李亨は霊武(寧夏回族自治区銀川市)に到着した後、唐の第10代皇帝・粛宗として皇帝に即位しました。

11月、粛宗が霊武にいることを知った安禄山軍の阿史那承慶は5000の兵を率いて、霊武を襲撃しました。
郭子儀はウイグルの援軍と共に、阿史那承慶を撃破しました。

安慶緒から長安を奪還する

757年4月、鳳翔(陝西省宝鶏市)に進軍した粛宗は、郭子儀を呼び出し、司空に封じて、河東副元帥に任命しました。

郭子儀は5月に同平章事に、8月に兵馬副元帥に任命され、その後、兵部尚書、朔方、隴右、河西三鎮節度使に任命されました。

10月には、皇太子・李俶、僕固懐恩と共に、安慶緒軍を大破し、長安を奪還しました。

おゆう
おゆう

安禄山は次男・安慶緒に殺され、安禄山が率いていた軍を引き継いでいました。

潼関を奪還し、哥舒翰の敵を討つ

郭子儀は子ども・郭旰を潼関に派遣し、潼関に駐留していた崔乾祐を破りました。
哥舒翰の敵を討ち、潼関を奪還することはできましたが、同時に、郭旰が戦死し、子どもを失ってしまいました。

757年12月、郭子儀は荒廃した河東、河西、河南を整備し、司徒に封じられました。

僕固懐恩、吐蕃とウイグルの反乱を鎮圧する

763年2月、反乱の首謀者である安禄山、史思明、安慶緒、史朝義の4人が亡くなり、安史の乱が終結。

ところが、戦い続けてきた郭子儀に休む暇はありません。

おゆう
おゆう

一緒に戦ってきた僕固懐恩が唐に反乱を起こしたんです。

764年、僕固懐恩の反乱を鎮圧しましたが、765年には、吐蕃とウイグルが反乱を起こしました。

郭子儀は吐蕃とウイグルの反乱をも鎮圧し、唐の第11代皇帝・代宗から大尉・中書令に任命されました。
779年5月、代宗が崩御し、第12代皇帝・徳宗が即位すると、これまでの功績を称えて、郭子儀は太尉を追贈され、中書令に再び任命されました。

781年7月、病を患い、85歳で亡くなりました。

まとめ

郭子儀の生涯を7つに分けて紹介しました。

郭子儀は身分の高い郭敬之を父にもつにも関わらず、幼少期、青年期の記録は全く残っていません。
郭子儀の名前が史書に登場するのは40歳を過ぎてからです。

それでも、安史の乱を鎮圧した後、僕固懐恩、吐蕃、ウイグルの反乱を収め、唐に大きく貢献した記録が残っています。
郭子儀がどのような幼少期、青年期を送っていたのか、史料が発掘されるといいですね。

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