【唐】活躍したのは郭子儀だけじゃない!子孫をまとめて紹介

唐の代表的な名将として知られる郭子儀。
697年から781年まで生きた郭子儀は、第9代皇帝・玄宗から、粛宗、代宗、徳宗までの4代に仕えました。

でも、唐で活躍したのは、郭子儀本人だけではありません。

おゆう
おゆう

郭子儀の子孫も、唐で大活躍したんです。

郭子儀の子孫を一挙紹介します。

スポンサーリンク

郭子儀の長男・郭曜とその子・郭鋒

郭子儀の長男・郭曜と郭鋒について紹介します。

郭曜

郭曜は郭子儀と共に、安史の乱で軍功を上げ、太子少保に任命されました。

坊っちゃん
坊っちゃん

太子少保は正二品の役職で、上から3番目の位です。

太尉、司徒、司空の三公が説く道徳を参考に、皇太子を教育する仕事を任されました。

郭鋒

ウイグル帝国の第5代可汗テングリデ・ボルミシュ・キュルグ・ビルゲ・カガンの冊立にあたり、郭鋒は唐から冊立使としてウイグル帝国に派遣されました。

テングリデ・ボルミシュ・キュルグ・ビルゲ・カガンが崩御すると、弔祭使として、、第6代可汗・クトゥルグ・ビルゲ・カガンが即位すると、冊立使として、ウイグル帝国に度々派遣されました。

郭鋒はウイグル帝国にとって身近な存在となりましたが、鱗州(陝西省神木市)刺史に任命された後、吐蕃と戦うことになり、戦死しました。

郭鋒が亡くなったことを知ったウイグル帝国は、可汗はもちろん、国民まで皆悲しんだといわれています。

郭子儀の次男・郭旰

郭曜と同様、郭旰も安史の乱で軍功を上げました。

郭旰の軍功として最も有名なのが潼関の奪還です。

安禄山、史思明から長安を攻められないように、唐の将軍・哥舒翰は潼関を守っていました。
でも、宰相・楊国忠にそそのかされた玄宗が、潼関を出て進軍するように、哥舒翰に命令。
哥舒翰は待ち伏せしていた崔乾祐に捕らえられ、潼関を奪われてしまいました。

捕らえられた哥舒翰は安禄山に殺されてしまいましたが、郭旰は崔乾祐を破り、潼関を奪還しました。

潼関を奪還する際に、郭旰は戦死してしまいましたが、その功績を称えて、開府儀同三司、荊州(湖北省荊州市)大都督を追贈されました。
開府儀同三司は従一位で、上から2番目の位です。

おゆう
おゆう

自分より早く、子どもの死を迎えた郭子儀。
郭子儀は郭旰の死を悲しんだと思いますが、唐から敬意を表され、多少報われたのではないでしょうか。

郭子儀の三男・郭晞

安史の乱において、安禄山、史思明に奪われた長安の奪還に貢献し、太子左賛善大夫(従四位下)、鴻臚卿(鴻臚寺の長官)に任命されました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

鴻臚寺とは、宮中の朝会や外国使節の謁見の儀礼を司る役所です。

764年、僕固懐恩の乱を平定すると、御史中丞に、
765年、吐蕃を大破すると、御史大夫に任命されました。

御史中丞は刺史を監察したり、侍御史を統括したりする役職、
御史大夫は御史台の長官で、官僚を監察する役職です。

郭晞は794年に亡くなりましたが、第12代皇帝・徳宗は兵部尚書を追贈しました。

郭子儀の六男・郭暖

郭子儀の子どもの中で、最も有名なのが郭暖です。

郭暖は第11代皇帝・代宗の第4皇女・昇平公主と結婚しました。

郭暖と昇平公主の間に誕生した長女・郭氏は、第14代皇帝・憲宗の皇后に冊立され、穆宗を出産しました。

結婚後、駙馬都尉に任命されました。
駙馬都尉は皇帝の伴走車の馬を管理する役職で、公主の夫が就くのが一般的でした。

その後、殿中監、検校左散騎常侍、太常卿を歴任しました。

殿中監は皇帝の衣食住を管理する役職、
検校左散騎常侍は詔勅や皇帝の命令を伝達する役職、
太常卿は宗廟(先祖に対する祭祀を行う場所)を管理する役職です。

郭暖は800年に亡くなりましたが、徳宗は尚書左僕射を、第15代皇帝・穆宗は太傅を追贈しました。

「知らない、聞こえないふりをすることも重要」といった意味をもつ不痴不聾という四字熟語があります。
実はこの四字熟語は、郭暖と昇平公主、代宗から生まれたもの。郭暖と昇平公主が夫婦喧嘩をした時、郭暖は「皇帝の娘だからって威張るな」と言ってしまいました。
昇平公主は代宗に告げ口しましたが、代宗は首を突っ込みませんでした。
郭子儀は郭暖と共に代宗のもとへ足を運び、処罰を申し出ましたが、代宗は「知らないふりをしなければ、いい舅になれない」と言って、子ども夫婦の喧嘩に関わらないことを告げ、二人を処罰しませんでした。唐の数々のピンチを救ってきた郭子儀に対して、代宗は感謝してもしきれなかったのかもしれませんね。

郭子儀の七男・郭曙

代宗の下で殿中少監を務め、777年には、司農少卿に任命されました。

782年、唐の待遇に不満をもった朱沘が反乱を起こしました。
身の危険を感じた徳宗は長安を出て、奉天(陝西省咸陽市)に避難することになり、郭曙は徳宗に付き添いました。

反乱が鎮圧され、長安に戻った徳宗は郭曙を左金吾衛大将軍に任命しました。

その他

郭子儀には8人の息子、8人の娘がいました。

紹介した5人の息子の他、四男・郭昢、五男・郭晤、八男・郭映がいましたが、郭昢は光禄卿に、郭晤は兵部郎中に、郭映は太子右庶子に任命されるなど、紹介した兄弟に劣らない職務に携わりました。

8人の娘は県令や刺史、観察使や殿中少監、司門郎中などの役職に就く男性に嫁ぎました。

まとめ

郭子儀の子孫を紹介しました。

郭子儀に負けないぐらい、唐に貢献した子孫。
でも、子孫が唐の皇帝から高い評価を得られたのは、郭子儀が高い評価と強い信頼を得ていたからこそかもしれませんね。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ

タイトルとURLをコピーしました