唐が衰退するきっかけとなった安史の乱。
安史の乱は唐の第9代皇帝・玄宗在位中の755年に勃発し、第11代皇帝・代宗在位中の763年に鎮圧されました。
安史の乱を鎮圧した代宗はどのような人物なのでしょうか。
代宗の生涯を9つに分けて紹介します。
粛宗の第1皇子として生まれる
代宗は726年生まれで、唐の第10代皇帝・粛宗と側室・呉氏の間に第1皇子として誕生しました。
代宗の名前は李俶といいます。
呉氏の高祖父・呉景達は皇帝に薬を作る尚薬奉行、曽祖父・呉絢は徳陽県令、祖父・呉訓は神泉県令に任命され、呉氏は有力貴族の出身でした。
ところが、父・呉令珪が罪を犯し、掖庭宮に入りました。
725年、唐の第9代皇帝・玄宗の側近・高力士の推薦で、粛宗の側室になりました。
呉氏は美人で、謙虚な性格。
粛宗は呉氏を寵愛し、726年に李俶を出産した後、729年に第3皇女・和政公主を出産しましたが、翌年、730年に18歳で亡くなりました。
広平王に封じられる
罪を犯した祖父をもち、幼くして母を亡くした代宗は境遇に恵まれていませんでしたが、勉強が大好きで、温厚で礼儀正しく、決断力があって、玄宗からとても好かれていました。
才能を認められた李俶は広平王に封じられました。
742年、沈氏を側室に迎え、長男・李适を授かりました。
安禄山から、長安と洛陽を奪還する
755年、安史の乱が勃発し、安禄山が長安に迫ると、玄宗は粛宗や李俶、楊貴妃と楊氏一族を連れて、蜀(四川省成都市)へ逃亡。
楊貴妃を失い、悲しみに暮れた玄宗は、粛宗に反乱を鎮圧するよう命じました。
756年、粛宗は霊武で即位すると、李俶は兵馬大元帥に任命され、朔方節度使・郭子儀やウイグル軍と共に、安禄山に奪われていた長安、洛陽を奪還しました。
皇太子になる
758年、粛宗は側室・張淑妃を皇后に冊立しました。
張皇后は李俶と折り合いが悪く、李俶を殺して、第2皇子・李係を皇太子に擁立しようと企てました。
でも、張皇后の企みを知った粛宗の側近・李輔国が防ぎ、張皇后と李係は軟禁されました。
その後、李輔国の推薦で、李俶は皇太子になりました。
皇帝に即位する
762年、玄宗と粛宗が相次いで崩御し、李俶は代宗として皇帝に即位しました。
第1皇子・李适は皇太子になりました。
安史の乱を鎮圧する
安禄山は長男・安慶緒に殺され、安慶緒は安禄山の盟友・史思明に殺され、史思明は長男・史朝義に殺され、史朝義が反乱軍を指揮していました。
代宗は李适を主帥、僕固懐恩を副帥に任命し、ウイグル軍と合わせて10万人の兵で、史朝義を攻撃。
李光弼や郭子儀も参戦し、763年、安史の乱を鎮圧しました。
宦官に実権を握られる
安史の乱の鎮圧に追われていた代宗に代わって、朝廷を動かしていたのが李輔国。
官吏の行動を監視していた李輔国は、官吏を脅したり、傲慢に振る舞うようになりました。
代宗は宦官・程元振に命じて、李輔国を殺害しましたが、李輔国に代わって、程元振が実権を握っただけでした。
吐蕃の侵攻を受ける
763年、吐蕃が唐を侵攻しました。
でも、程元振は代宗に報告せず、代宗が吐蕃の侵攻を知った時には、吐蕃は長安に迫っていて、戦闘の準備が整っていない代宗は逃げるしかありませんでした。
代宗は李光弼と郭子儀に吐蕃を攻撃するように命じましたが、程元振に目をつけられることを嫌がった李光弼は長安に駆けつけませんでした。
郭子儀は兵を寄せ集めて、長安に駆けつけ、吐蕃を攻撃して、長安を奪還しました。
54歳で崩御する
李光弼が長安に駆けつけなかった原因が程元振の横暴にあることを知った代宗は、宦官・魚朝恩に命じて、程元振を殺害しました。
ところが、やっぱり、程元振に代わって、魚朝恩が実権を握っただけで、宦官が朝廷を牛耳る体制に変化はありませんでした。
779年、代宗は54歳で崩御しました。
まとめ
代宗の生涯を9つに分けて紹介しました。
唐の第10代皇帝・粛宗と側室・呉氏の間に第1皇子として誕生した代宗。
罪を犯した祖父をもち、幼くして母を亡くした代宗は境遇に恵まれていませんでしたが、玄宗から才能を認められ、とても好かれていました。
粛宗が即位すると、代宗は兵馬大元帥に任命され、安禄山に奪われていた長安、洛陽を奪還しました。
763年には、安史の乱を鎮圧し、3代に渡る反乱に終止符を打ちましたが、李輔国を始めとする宦官に実権を握られました。
宦官から実権を取り戻すことなく、54歳で崩御しました。
玄宗在位中から、高力士を筆頭に活躍していた宦官。
代宗が崩御した後、宦官はますます権力を振るうようになります。
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