安史の乱を鎮圧した唐の第11代皇帝・代宗に続いて即位した徳宗。
徳宗は知名度がありませんが、楊炎の提唱した両税法は徳宗の治世で施行されました。
徳宗の生涯、父・代宗と母・沈氏の悲しい別れを紹介します。
徳宗ってどんな人?
徳宗は742年生まれで、唐の第11代皇帝・代宗と側室・沈氏の間に、第1皇子として誕生しました。
名前は李适といいます。
皇太子になる
762年、代宗が即位すると、李适は天下兵馬元帥として、安史の乱の鎮圧に尽力。
764年には、皇太子になりました。
皇帝に即位する
779年、代宗が崩御すると、李适は徳宗として皇帝に即位しました。
施策を実施するも失敗に終わる
安史の乱によって、財政的にも軍事的にも疲弊した唐。
徳宗は唐を復興させようと、次のような施策を実行します。
両税法を施行
両税法とは、宰相・楊炎が提唱した税の徴収法です。
① 夏(6月)と秋(11月)の2回、税を徴収する
② 農民は資産額、耕地面積によって税額を決定する
③ 商人は資産額によって税額を決定する
④ 金銭で納付する
⑤ 歳出を計算して、税額を決定する
特に注目するべきは、④の金銭で納付すること。
今まで貨幣を持たなかった農民が貨幣を持ったんです。
これにより、商業活動が活発化。
一方で、農民は作物を換金しなければいけないため、物価が下落したり、買い叩きが起きたりしました。
節度使の抑制
唐が安史の乱を早期に鎮圧できなかった背景には、節度使・安禄山が兵力をもち過ぎたことにあります。
そこで、徳宗は、世襲を禁止する、兵力を削減するなどして、節度使の力を削ぎました。
でも、兵力が十分になければ、節度使は辺境を守ることができません。
① 河朔三鎮(優秀、鎮冀、魏博)
② 河南二鎮(平盧、淮南西道)
は不満を抱いて、反乱を起こします。
長安を追われることになった徳宗は、罪己詔を発表して謝罪。
「節度使に介入しない」と約束してしまい、税制改革、節度使改革は失敗に終わります。
805年、徳宗は64歳で崩御しました。
父・代宗と母・沈氏の悲しい別れとは?
安史の乱が勃発して間もなく、安禄山は洛陽を占拠。
玄宗や粛宗、代宗は正妻を連れて、長安から蜀(四川省成都市)に逃げました。
この時、側室は長安に置き去りにされてしまいました。
第1皇子を出産した沈氏でさえも置き去りにされてしまいます。
沈氏は安禄山に捕まりましたが、代宗が洛陽を奪還して唐に戻ることができました。
ところが、史思明が洛陽を再び奪うと、沈氏は行方不明になってしまいます。
安史の乱鎮圧後、代宗はもちろん、徳宗も沈氏を捜しましたが見つかりませんでした。
沈氏は生死不明のまま、徳宗によって皇太后に封じられました。
「「麗王別姫~花散る永遠の愛~」公式サイト」より引用
代宗と沈氏の悲しい別れを再現したのが、中国ドラマ「麗王別姫~花散る永遠の愛~」です。
・安慶緒と沈氏が幼なじみ
・沈氏の初恋相手が代宗
など、史実とは異なる点が多々あります。
でも、くっついては離れる代宗と沈氏が切ないです。
ストーリーが面白いうえに、映像がとても綺麗なドラマです。
機会があれば、是非見てみてくださいね。
まとめ:徳宗は生死不明の母を思い続けた…
徳宗の生涯、父・代宗と母・沈氏の悲しい別れを紹介しました。
徳宗は安史の乱によって疲弊した唐の財政、軍事を立て直そうとします。
ところが、節度使の反対にあい、改革は失敗に終わってしまいました。
母との別れを乗り越え、唐の立て直しに尽力した徳宗。
沈氏は徳宗を誇りに思っているのではないでしょうか。
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