唐の初代皇帝・高祖(李淵)より目立つ、第2代皇帝・太宗(李世民)。
太宗とはどのような人物なのでしょうか。
太宗の生涯を10章に分けて紹介します。
李淵の第2皇子として生まれる
李世民は598年生まれで、武功県(陝西省咸陽市)の出身。
幼少期の李世民は身体が弱く、李淵は河南省滎陽市にある大海寺で度々祈祷しました。
613年、15歳で長孫氏と結婚しました。
軍師として、軍人として有名になる
614年、隋の第2代皇帝・煬帝が突厥の攻撃を受け包囲されました。
煬帝を包囲している突厥軍の兵の数は膨大で、突厥軍と真っ向勝負しても勝ち目はありません。
そこで、李世民は武将・雲定興にある策を提案しました。
たくさんの旗を見せつけ、太鼓をたくさん打ち鳴らしたら、隋の大軍が駆けつけたと錯覚して退却するだろうと言ったんです。
李世民の策は成功し、煬帝を無事救出することができました。
また、李淵が歴山飛という賊の討伐に出向いた時のこと。
太原で歴山飛に待ち伏せされて、李淵は包囲されてしまいました。
李世民は李淵のもとへ駆けつけ、李淵を救出したうえに、弓矢で歴山飛を討伐しました。
こうして、李世民は優れた軍師として、また、弓矢の腕の持ち主として、名をとどろかせることになったんです。
李淵と共に、隋に反旗を翻す
617年、李淵が隋に反旗を翻して、挙兵すると、右領軍大都督として長安に進軍し、虎牙郎将・宋老生を倒して、長安を陥落しました。
李世民と宋老生の戦いを、霍邑の戦いといいます。
618年1月、右元帥に任命され、5月、李淵が唐を建国し、初代皇帝・李淵として即位すると、第1皇子・李建成は皇太子に、李世民は尚書令に任命されました。
唐を建国した後も、各地に群雄が散らばって、それぞれが王朝を建てていました。
馬邑を都とする定楊王朝の劉武周、洛陽を都とする鄭王朝の王世充、楽寿を都とする夏王朝の竇建徳などです。
李世民は群雄を征討し、唐の国力の安定に貢献しました。
戦いが長引き、李世民の服や身体は土、埃まみれに。李世民が軍営に戻っても、味方から認識してもらえず、甲冑を脱いで、口を開いてやっと李世民だと認識してもらえるほどでした。
功績が認められた李世民は、王公より高い爵位である天策上将に封じられました。
玄武門の変を起こす
李建成は李世民に皇太子の座を奪われるのではないかと不安になり、李世民の側近・房玄齢と杜如晦を左遷したり、李世民の配下の武将を買収しようとしたりしました。
626年、身の危険を感じた李世民は、李建成と第3皇子・李元吉を玄武門で倒し、皇太子に即位しました。
即位する
間もなく、高祖は李世民に譲位し、李世民は第2代皇帝・太宗として即位しました。
突厥が唐を侵攻すると、太宗はたった6騎を率いて突厥軍の前に立ちはだかって追い返すなど、皇帝に即位しても、戦いの前線に立ち続けました。
貞観の治を迎える
627年、房玄齢と杜如晦を登用し、李建成の下にいた魏徴を登用して、耳が痛くなるようなアドバイスも積極的に受け入れました。
律令制度の整備、刑罰の軽減などの施策を実施した結果、隋末の混乱で失われていた国力を回復し、貞観の治と呼ばれる繁栄期を迎えました。
羈縻統治を行う
629年、唐を度々侵攻してきた突厥を討伐することにし、李勣と李靖を突厥に派遣しました。
李靖は突厥の君主・頡利可汗を捕らえて、突厥は唐の支配下に入りました。
また、640年には、現在の新疆ウイグル自治区にあった高昌国が支配下に入りました。
当時、高昌国は8046戸、1万7700人を抱えていました。
そこで、太宗は安西都護府を置いて、羈縻統治を行いました。
羈縻統治とは、その地域の統治を現地の首長に任せ、現地の首長の管理を都護府が行う政策です。
自害しようとする
これまで国内、国外をうまく治めてきた太宗。
ところが、第1皇子・李承乾、第4皇子・李泰が皇太子争いを繰り広げてしまいます。
玄武門の変で、自ら兄と弟を殺した太宗は、自分の子どもが同じように皇太子争いをしたことにショックを受けました。
自害しようとするほど、皇太子選びに悩んだ結果、第9皇子・李治(後の高宗)を皇太子に選びました。
高句麗遠征に失敗する
644年11月、営州都督・張倹に高句麗の偵察を行わせたうえで、高句麗遠征に乗り出しました。
李治に長安の留守を任せ、太宗は自ら弓矢をつけ進軍。
李勣をはじめ、優秀な武将と共に高句麗に向かいましたが、疲労から心の病を患う者が続出しました。
それでも、一ヶ月の間に、遼東城の東北にある蓋牟城を陥落させるなど、唐軍は順調に高句麗を征討していきました。
太宗は通った橋を壊して退路を断つなど、唐軍を励ましました。
ところが、高句麗の冬の訪れは、唐が予想していた以上に早く、大吹雪に遭い、凍死する者が相次ぎました。
太宗は高句麗遠征を諦め、兵を引き上げて長安に帰りました。
51歳で崩御する
長安に無事帰ったものの、遠征中に悪性のできものができてしまい、療養しなければならず、政務は李治に任せることになりました。
李治は政務を行った後、太宗のもとへ駆けつけ、毎日のように看病し続けましたが、649年、太宗は51歳で崩御しました。
まとめ
太宗の生涯を10章に分けて紹介しました。
李淵の第2皇子でありながら、太宗は李淵の片腕として大活躍しました。
隋を倒し、突厥を追い返すなど、軍師、弓矢の腕の持ち主として強さを見せる反面、子どもが皇太子争いをし、皇太子選びに悩むと自害しようとするなど、弱さを見せた太宗。
親近感がわきますね。
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