安史の乱勃発以降、唐では宦官が朝廷の実権を握りました。
そんな宦官を排除しようと画策したのが、第17代皇帝・文宗です。
文宗の宦官を排除する計画は、順調に進んだのでしょうか。
文宗、文宗に謁見した日本人・藤原常嗣を紹介します。
文宗ってどんな人?
文宗は809年生まれで、父である唐の第15代皇帝・穆宗と母・蕭氏の間に、第2皇子として誕生しました。
苗字は李、名前は昂といいます。
皇帝に即位する
821年、13歳で江王に封じられました。
824年、穆宗が崩御すると、兄・李湛が第16代皇帝・敬宗として即位しました。
ところが、827年に、宦官・劉克明が敬宗を暗殺してしまいました。
劉克明は「第14代皇帝・憲宗の第6皇子・李悟を即位させるように」と綴った偽の遺勅を作成し、李悟を迎えましたが、劉克明と対立していた宦官・王守澄と梁守謙が禁軍を率いて、劉克明と李悟を殺害しました。
王守澄は李昴を擁立し、李昴は第17代皇帝・文宗として即位しました。
宦官の排除に失敗する
即位した当時、文宗は18歳。
文宗を擁立した王守澄に朝廷の実権を握られていましたが、3000人もの女官や官吏を削減して、財政を確保するなど、政務に励みました。
でも、宦官の勢力は日々増すばかり。
831年、宦官勢力に押され、頼りにしていた宰相・宋申錫を解任せざるを得なくなってしまいました。
宦官勢力に押されっぱなしではいけないと、文宗は宋申錫と共に、宦官を排除する計画を立てました。
でも、計画は王守澄にバレてしまい、王守澄は「宋申錫が謀反を企てている」と嘘の密告をして、計画を頓挫させました。
王守澄の復讐を恐れた文宗は、宋申錫を擁護することなく、宋申錫を左遷して事態を治めました。
甘露の変が起きる
宋申錫を失い、宋申錫に罪を着せてしまった文宗。
835年、文宗は「今度こそ、宦官を排除する」と覚悟を決め、礼部侍郎・李訓と太僕寺卿・鄭注と共に、王守澄と宦官・仇士良を排除する計画を立てました。
ところが、計画が終盤を迎えたところで李訓が裏切ってしまい、察知した宦官・仇士良は文宗を連れて逃亡し、文宗を幽閉しました。
宦官の指揮のもと、李訓と鄭注、宰相・王涯、賈餗は禁軍に殺されてしまいました。
王涯と賈餗はただその場にいただけで、計画には全く関与していません。
巻き込まれてしまったんです。
そこに食いついたのが、昭義(山西省長治市)節度使・劉從諫。
王涯と仲が良かった劉從諫は、軍を率いて、「何故、王涯が死ななければいけなかったのか、ちゃんと説明してほしい」と上奏しました。
劉從諫が率いた兵の数に驚いた仇士良は、慌てて文宗を解放し、事態の収拾を任せました。
この事件を甘露の変と呼びます。
32歳で崩御する
文宗は解放されたものの、病を患い、起き上がれなくなってしまいました。
やがて死期が近付き、後を継いで皇帝になる者を選ばなければいけませんでした。
そこで、敬宗の第5皇子・李成美を皇太子としましたが、仇士良が殺害してしまいました。
結局、840年に文宗が32歳で崩御した後、後を継いだのは穆宗の第5皇子であり、文宗にとって弟である李瀍でした。
謁見した藤原常嗣とは?
宦官を排除しようと画策するも、計画がバレたり、裏切られたりして、失敗した文宗。
そんな文宗に会った日本人がいます。
藤原常嗣です。
藤原常嗣は796年生まれ。
父・藤原葛野麻呂(かどのまろ)、母・菅野浄子の間に誕生しました。
実は、藤原葛野麻呂は唐の第12代皇帝・徳宗に会ったことがあるんです。
755年生まれの藤原葛野麻呂は、801年に第18回遣唐大使に選ばれ、803年に唐に向けて出航しました。
ところが、出航してすぐに暴風雨に遭い、渡航は仕切り直しに。
804年に再出航し、中国には到着できたものの、着いたのは福州(福建省福州市)でした。
11月、長安に移動することがようやく許可され、12月に徳宗に謁見しました。
藤原葛野麻呂に続いて、834年、藤原常嗣は第19回遣唐大使に選ばれました。
836年5月に出航しましたが、嵐に遭い、渡航は仕切り直しに。
7月に再出航するも、九州各地に漂着。
838年に、3度目の出航をすることになりました。
ところが、藤原常嗣の乗っていた船が破損。
副使・小野篁が乗る予定の船に乗ろうとしたところ、小野篁が怒って、病気、親の介護、藤原常嗣に対する不満を理由に、渡航を拒否してしまいました。
小野篁は朝廷に逆らったとして、隠岐に流罪。
小野篁が流罪になったにも関わらず、医師・伴有仁も渡航を拒否して処罰を受けました。
この頃には、遣唐使の意義を感じられなくなっていたことが分かりますね。
3度目の出航で、藤原常嗣は揚州(江蘇省揚州市)に無事到着。
まとめ
文宗、文宗に謁見した日本人・藤原常嗣を紹介しました。
文宗は18歳という若さで即位しましたが、女官や官吏を削減して、財政を確保するなど、政策を打ち出し、唐の立て直しを図りました。
ただ、宦官の排除に失敗し、文宗は幽閉され、32歳の若さで崩御しました。
第19回遣唐大使として、唐に渡航した藤原常嗣は文宗に謁見しました。
父・藤原葛野麻呂は第18回遣唐大使として、唐に渡航し、親子揃って、当時の皇帝に謁見したことになります。
宦官が朝廷の実権を握っていた唐に渡航した藤原常嗣が無事に帰国したことを考えると、朝廷の外の治安は意外と良かったのかもしれませんね。
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