【唐】敬宗(李湛)ってどんな人?外戚政治を終わらせた郭皇太后とは?

おゆう
おゆう

唐王朝には21人の皇帝がいますが、この中で一番パッとしないのが第16代皇帝・敬宗です。
※個人の感想です。

でも、敬宗の治世に登場した郭皇太后は、長く続いていた外戚政治に終止符を打ちました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

敬宗より、郭皇太后のほうがパッとするっていうことですね。
※個人の感想です。

敬宗の生涯と外戚政治に終止符を打った郭皇太后を紹介します。

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敬宗ってどんな人?

敬宗は809年生まれで、唐の第15代皇帝である父・穆宗と母・王氏の間に、第1皇子として誕生しました。
苗字は李、名前は湛(たん)です。

821年に景王に封じられ、822年に皇太子に選ばれました。

824年、穆宗が30歳の若さで崩御すると、李湛は第16代皇帝・敬宗として即位しました。

唐王朝には21人の皇帝がいます。

第14代皇帝・憲宗が崩御すると、穆宗、敬宗、文宗、武宗、宣宗、懿宗、僖宗、昭宗、哀帝と9人の皇帝が即位しますが、このうち、皇太子から皇帝となった皇帝は敬宗ただ一人で、朱全忠に擁立されました哀帝以外は皆宦官に擁立され、実権を握られました。

おゆう
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当時、16歳だった敬宗。

坊っちゃん
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16歳といえば、今でいう高校生で、まだまだ遊び盛りです。

敬宗はポロ(馬に乗って、ボールを打つスポーツ)や相撲に没頭。
朝議には顔を出さず、顔を出しても大幅に遅刻するなど、皇帝にふさわしくない皇帝でした。

政務が向いていないと自覚していた敬宗は、宦官・王守澄と宰相・李逢吉に朝廷を一任しました。

宰相と聞くと、権力になびかず、真面目に政務を行うイメージをもたれるかもしれませんが、王守澄と李逢吉は昔から親交があり、李逢吉は王守澄が推薦した官吏でした。

敬宗から朝廷を一任されたのをいいことに、王守澄と李逢吉は気に入らない官吏に罪を着せて処刑しました。

官吏の処刑が続き、不審に思った敬宗は、官吏がどのような罪で処刑されたのか調べたところ、冤罪だったことを知りました。
王守澄と李逢吉に裏切られたと知った敬宗は、朝廷からますます遠ざかるようになりました。

敬宗がお気に入りの宦官と一緒に、ポロや相撲を楽しむ毎日を送っていたある日。

ポロの最中に、宦官が落馬事故を起こし、事故を目撃した敬宗はショックを受けて、脳卒中で倒れてしまいました。
敬宗はしばらく意識が戻らず、官吏によって、825年に生まれたばかりの第1皇子・李普が皇太子に選ばれました。

おゆう
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その後、敬宗は意識を取り戻しましたが、再びポロや相撲に明け暮れ、気に入らない宦官を虐待するようになりました。

827年、宦官・劉克明に暗殺され、19歳で崩御しました。

李普が皇太子に選ばれていましたが、2歳の李普に政務を行えるはずがなく、穆宗の弟・文宗が敬宗の後を継いで即位しました。

外戚政治に終止符を打った郭皇太后とは?

郭皇太后は、唐の第14代皇帝・憲宗の妻である郭貴妃と同一人物です。
憲宗が崩御し、郭貴妃の産んだ李恒が穆宗として即位すると、郭貴妃は皇太后に冊立されました。

曾祖父・郭敬は太傅を、父・郭暖は太尉が追贈され、母・昇平公主は斉国大長公主に封じられました。
兄・郭釗は刑部尚書に、郭鏦は金吾大将軍に任命されました。

穆宗から尊敬される

穆宗は郭皇太后を大事にし、毎朝郭皇太后の住む興慶宮に顔を出しました。
誕生日にはパーティを開き、郭皇太后が驪山に行くと言えば、禁軍に護衛をさせて、親孝行に努めました。

824年、穆宗が崩御すると、朝廷から信頼を得ていた郭皇太后は、政務に携わるようにお願いされました。
でも、則天武后が女帝となって、唐王朝に混乱を招いたことを理由に、郭皇太后は拒否しました。

郭皇太后が朝廷への関与を拒否したことで、外戚政治に終わりが訪れました。

敬宗から尊敬される

敬宗は16歳で即位しましたが、郭皇太后は重臣にサポートするよう指示しました。
敬宗も郭皇太后を慕い、郭皇太后を太皇太后に冊立しました。

文宗から尊敬される

827年、敬宗が崩御し、第16代皇帝・文宗が即位すると、文宗は生母・蕭氏と敬宗の生母・王氏を皇太后に冊立し、皇太后と太皇太后が合わせて3人存在することになりました。

文宗も郭太皇太后を尊敬し、礼儀をもって接しました。

武宗から尊敬される

840年、文宗が崩御し、第17代皇帝・武宗が即位しました。

武宗は、政務を行わず、宴会に明け暮れる毎日を過ごしましたが、郭太皇太后の諫言を素直に受け入れました。

宣宗から軽蔑される

これまで、全ての皇帝から親しまれてきた郭太皇太后。

ところが、武宗が崩御した846年に即位した第18代皇帝・宣宗は、郭太皇太后を敬わず、軽蔑してしまいました。

郭太皇太后はショックを受け、楼閣から飛び降り自殺しようとしました。
左右にいた女官に止められ、飛び降りることはしなかったものの、その夜、急死してこの世を去りました。

まとめ

敬宗の生涯と外戚政治に終止符を打った郭皇太后を紹介しました。

敬宗は朝廷に顔を出さず、ポロや相撲に明け暮れましたが、毎日欠かさず、母・郭皇太后に挨拶し、親孝行しました。

郭皇太后は皇帝に代わって政務を行うようにお願いされましたが、則天武后の例を挙げて断り、外戚政治に終止符を打ちました。

次々と交代する6人の皇帝を、温かく見守り続けた郭皇太后。
郭子儀の血を引いていた郭皇太后であれば、宦官を追い払って、本来の唐王朝を取り戻せていたかもしれませんね。

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