【唐】宣宗(李忱)ってどんな人?小太宗と呼ばれる理由は?

一定の成果を挙げた唐の第19代皇帝・宣宗は、小太宗と呼ばれています。
宣宗はどのような成果を挙げたのでしょうか。

宣宗の生涯、小太宗と呼ばれる理由を紹介します。

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宣宗ってどんな人?

宣宗は810年生まれで、唐の第14代皇帝・憲宗と母・鄭氏の間に、第13皇子として誕生しました。

憲宗の后妃は郭貴妃、鄭氏の二人しかいませんが、実は、鄭氏は郭貴妃の元侍女。

鄭氏は鎮海節度使・李錡の愛人でした。
李錡がクーデターに失敗すると、鄭氏は郭貴妃の侍女として宮廷入りしました。

郭貴妃が憲宗のもとを訪れた際に、郭貴妃に付き添った鄭氏は憲宗に見初められ、寵愛を受けました。

名前は李怡(たい)といいます。

皇太叔に擁立される

821年、李怡は光王に封じられました。

丹薬中毒になった第18代皇帝・武宗が危篤状態となり、宦官・馬元贄によって、李怡は皇太叔に擁立されました。

おゆう
おゆう

皇太叔とは、漢字から予想できるように、皇太子の叔父バージョン。
李怡は武宗の叔父に当たりました。

幼い頃、李怡は言葉数が少なく、周囲から賢くないと思われていましたが、皇太叔となった李怡に軍事を任せてみると、李怡はそつなくこなしました。

坊っちゃん
坊っちゃん

能ある鷹は爪を隠すとは、まさに李怡のためにあることわざでした。

皇帝に即位する

846年、武宗が崩御すると、李怡は第19代皇帝・宣宗として即位しました。

この時、李怡から李忱(しん)に改名しました。

即位した宣宗には、晁美人との間に第1皇子・李温がいましたが、李温は根暗だったため、第2皇子・李渼を皇太子にしました。

牛李の党争を終結させる

監察御史や地方官を歴任した裴休(はいきゅう)を塩鉄転運使に任命し、法整備、税制改革に乗り出しました。

また、朝廷で派閥をつくり、権力を握っていた宰相・李徳裕(りとくゆう)を潮州(広東省潮州市)司馬に左遷しました。

後に、李徳裕は崖州(海南省三亜市)司戸参軍に左遷され、崖州で亡くなりました。
長期にわたって続いた派閥争い・牛李の党争は、李徳裕の死をもって終わりを迎えました。

宦官をゆっくり排除する

続いて、宣宗は朝廷で実権を握っている宦官を排除しようとしました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

宣宗以前の皇帝も、宦官を排除しようと、いろいろな策を練りましたが、皆失敗しています。

宰相・令狐綯(れいことう)は、
① 罪を犯した宦官は厳しく処罰
② 罪を犯していない宦官は放置
するように、宣宗にアドバイスしました。

また、宦官が亡くなり、欠員が生じたからといって、宦官を補充しないように言いました。

おゆう
おゆう

宦官が亡くなるのを気長に待って、宦官勢力を自然と消滅させれば、宦官の反感を招かずに済むと考えたんです。

令狐綯のアドバイスどおりに、宦官には穏やかに接しました。

50歳で崩御する

宣宗の政治は一定の成果を上げ、宣宗は小太宗と呼ばれましたが、道教を熱心に信仰し、不老不死を求めるようになりました。

859年、丹薬中毒によって、宣宗は50歳で崩御しました。

小太宗と呼ばれる理由は?

小太宗というと、まず、思い浮かべるのが、唐の第2代皇帝・太宗ではないでしょうか。

おゆう
おゆう

小太宗という呼び名は、太宗に由来しています。

何故、宣宗は小太宗と呼ばれているのでしょうか。
その理由は3つあります。

太宗に憧れていた

宣宗は太宗に憧れ、貞観政要を繰り返し読んでいました。

貞観政要とは、太宗の言葉、行動を記録した史書です。

宣宗は貞観政要を屏風にして、事あるごとに、屏風を眺めては、貞観政要をつぶやいていました。

牛李の党争を終わらせた

紹介したように、朝廷では宰相・李徳裕が派閥をつくり、権力を握っていました。
長期にわたって続いた派閥争い・牛李の党争に、宣宗以前の皇帝もうんざりしていました。

李徳裕が左遷先で亡くなって、牛李の党争は自然と終わりを迎えましたが、皇帝の悩みの種を一つ減らしたことは、宣宗の功績の一つといえます。

威厳があった

第9代皇帝・玄宗の治世以降、宦官が実権を握り、皇帝であっても、宦官に立場を脅かされてきました。
やがて、趣味や宴会、女性に夢中になる皇帝の治世が続き、皇帝は威厳を失っていました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

でも、宣宗が夢中になったのは、貞観政要。

宦官や宰相陣に媚びることなく、意見を交えました。

例えば、宰相・令狐綯は宣宗の詔勅を守らなかったことがありました。

地方に赴任する刺史は、次の任地に赴任する際、都に戻らず、そのまま赴任していました。

でも、宣宗は次の任地に赴任する前に、一旦都を訪れ、面接を受けるべきだと詔勅を下しました。
ところが、令狐綯は詔勅を守らず、親しい刺史を次の任地にそのまま赴任させてしまったんです。

宣宗から呼び出され、こっぴどく怒られた令狐綯。
宣宗の威厳を感じた令狐綯は、汗で衣服をびしょびしょに濡らしたといわれています。

まとめ

宣宗の生涯、小太宗と呼ばれる理由を紹介しました。

李怡は異例の皇太叔に擁立され、武宗が崩御すると、第19代皇帝・宣宗として即位しました。
即位した宣宗は法整備、税制改革の他、長期にわたって続いた派閥争い・牛李の党争を終わらせました。

宣宗が行った改革は多岐にわたりますが、残念ながら、戦争で史書が失われたため、具体的な内容は分かりません。
でも、宣宗の呼び名・小太宗から、宣宗が高い評価を受けていたことが分かりますね。

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