暴君として有名な隋の第2代皇帝・煬帝。
そんな煬帝にも、失いたくないからと、罪を問えないお気に入りの臣下・王冑がいました。
王冑とはどのような人物なのでしょうか。
王冑の生涯を紹介します。
煬帝のもとで学士となる
王冑は558年生まれで、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)の出身。
王冑は陳で鄱陽王法曹参軍に任命された後、太子舎人や東陽王文学を歴任しました。
589年に、隋の攻撃を受けて陳が滅亡すると、隋の初代皇帝・文帝(楊堅)の第2皇子・楊広(後の第2代皇帝・煬帝)のもとで学士となりました。
朝散大夫となる
604年、驩州道行軍総管・劉方のもとで、林邑(現在のベトナムのクアンナム省)の平定に貢献し、その功績を認められて、帥都督に任命されました。
605年、著作佐郎に任命され、煬帝によって詩文の才能を評価されました。
煬帝が行った高句麗遠征で高句麗に出向き、手柄を立てて、朝散大夫となりました。
朝散大夫とは、従五品下の雅称。
王冑は煬帝が喜ぶ詩を詠み、また、軍事面で手柄を立てました。
でも、王冑に与えられたのは、従五品下という決して高いとはいえない位。
王冑は与えられた位の低さに不満を抱いていました。
諸葛潁と対立する
この王冑の不満につけこんだのが、同じく朝散大夫となった諸葛潁。
諸葛潁は王冑に負けず劣らずの才能の持ち主。
父は梁で義陽郡(河南省信陽市)太守を務めた諸葛規です。
梁で邵陵王参軍事を務めていましたが、侯景の乱が起きたことによって、北斉に逃げることとなり、北斉で待詔文林館に任命されました。
その後、太子博士や太子舎人を務めました。
太子舎人に任命されたなんて、王冑にそっくり。
戦地で手柄を立てた点も王冑と同じ。
吐谷渾の平定に貢献し、正議大夫となりました。
また、王冑と同じく、煬帝に詩文の才能を評価され、皇后や側室と同じ待遇で宴会に招待されました。
更に、諸葛潁は煬帝の寝室に出入りすることも許されていました。
王冑に対抗心を燃やしていた諸葛潁は、王冑が位に不満を抱いていることを上奏しました。
でも、王冑を失いたくない煬帝は、王冑の罪を問いませんでした。
楊玄感の反乱に連座する
ところが、王冑の運命を変える事件が起きます。
煬帝の側近・楊玄感の反乱です。
実は、王冑と楊玄感は自宅を度々行き来するほどの仲。
613年、楊玄感が反乱を起こすと、楊玄感と交流のあった王冑は流刑となりました。
身の危険を感じた王冑は、流刑地から逃げ、江南に移りましたが、煬帝の臣下に捕まって処刑されました。
まとめ
王冑の生涯を紹介しました。
煬帝から才能を評価され、従五品下の朝散大夫となった王冑。
王冑は与えられた位の低さに不満を抱いていましたが、煬帝は王冑を罰しませんでした。
暴君・煬帝が惚れる王冑に会ってみたいですね。
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