隋の初代皇帝・文帝から文献の編纂を任された李孝貞。
ところが、「文才がない」という理由で、李孝貞は地方の刺史に左遷されてしまいました。
李孝貞とはどのような人物なのでしょうか。
李孝貞の生涯を紹介します。
名門趙郡李氏に生まれる
李孝貞は北斉で信州(重慶市)刺史を務めた李希礼の子どもで、南北朝時代から隋・唐の時代まで続いた名門趙郡李氏の出身です。
李孝貞は幼い頃から学問が得意で、特に文才に優れていました。
黄門侍郎・高乾との縁談を断る
北斉で司徒府参軍(司徒の参謀として、作戦を立案する役職)となりました。
当時、朝廷で権力を握っていた給事中黄門侍郎・高乾から、「(李孝貞の)娘と結婚したい」と申し出を受けましたが、李孝貞は断りました。
司徒府参軍は七品で、お世辞にも高い役職とはいえません。
朝廷で権力を握っていた高乾と姻戚関係になれば、李孝貞はもっと高い役職に就くことができたにもかかわらず、高乾の申し出を断るなんて、高乾がよほど嫌な人物だったか、娘がよほど可愛かったか、李孝貞が頑固者だったかですね。
北周で内史侍郎となる
577年、北周の第3代皇帝・武帝(宇文邕)が北斉を滅ぼすと、李孝貞は北周に仕えることとなり、儀同三司を授けられ、大臣と同じ待遇を受けました。
578年、第4代皇帝・宣帝(宇文贇)が即位すると、吏部下大夫に任命されました。
この頃、朝廷で頭角を現したのが、宣帝の正妻・楊皇后(楊麗華)の父・楊堅。
楊堅は後の隋の初代皇帝・文帝で、宣帝が第1皇子・宇文衍に譲位し、宇文衍が第5代皇帝・静帝として即位すると、楊堅は丞相として権力を握りました。
楊堅が権力を握っていることに不満を抱いた相州(河南省安陽市)総管・尉遅迥が反乱を起こすと、李孝貞は新たに相州総管に任命された韋孝寛と共に反乱の鎮圧に当たりました。
手柄を立てた李孝貞は馮翊(陝西省渭南市)太守となり、その後、蒙州(河南省南陽市)刺史となりました。
金州刺史に左遷となる
581年、楊堅が静帝から禅譲され、隋を建国して、初代皇帝・文帝として即位すると、李孝貞は隋に仕えることになりました。
もともと文才に優れていた李孝貞は、「北斉史」を編纂した李徳林と共に文献の編纂に当たりました。
ところが、編纂された文献を読んだ文帝は「李孝貞には文才がない」といって、金州(陝西省安康市)刺史に左遷しました。
まとめ
李孝貞の生涯を紹介しました。
趙郡李氏と呼ばれる名門出身だった李孝貞。
文才に優れていたにもかかわらず、「文才がない」といって金州刺史に左遷され、朝廷を去りました。
本当に文才がなかったのは、李孝貞ではなく、文帝だったのかもしれませんね。
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