ペリー来航で開国した日本!日米和親条約の背景と内容、与えた影響

1853年(嘉永6年)、浦賀沖に突然現れた4隻の黒船。
ペリーの来航は、200年以上平穏を保ってきた日本の鎖国体制を揺るがしました。

翌年再び来航したペリーの要求に応じ、江戸幕府は「日米和親条約」を締結。
日本は長期にわたる閉鎖的外交に終止符を打ち、国際社会の荒波に足を踏み入れます。

日米和親条約を締結した背景と条約の内容、与えた影響をわかりやすく紹介します。

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ペリー来航で開国した日本!

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)。
江戸湾の入口にあたる浦賀(現在の神奈川県横須賀市)沖に、4隻の軍艦が現れました。

蒸気機関の黒い煙を吐き出し、巨大な大砲を構えた軍艦は「黒船」と呼ばれました。

黒船を率いていたのは、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー提督。

下田市のペリー上陸記念公園にあるペリー提督胸像。
日米和親条約が結ばれた了仙寺を見つめている。

ペリーはフィルモア大統領の親書を携え、日本に開国を迫りました。

200年以上続いた鎖国体制の揺らぎ

当時の日本の外交方針は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の治世に始まった鎖国。

外交や貿易をおこなう相手は、
① 長崎を拠点としたオランダ、清(中国)
② 対馬藩を通じた朝鮮
③ 薩摩藩を通じた琉球
④ 松前藩を通じたアイヌ
に限定されていて、キリスト教の禁止と幕府による貿易の独占が徹底されていました。

外国船の接近については、幕府は1825年(文政8年)に異国船打払令を出していました。
漢字からわかるように、接近する外国船を撃退する強硬姿勢を取っていたんです。

しかし、1840年に起きたアヘン戦争で、清がイギリスに負けてしまいます。
ヨーロッパの圧倒的な軍事力を恐れた幕府は方針を軟化。

1842年(天保13年)には「薪水給与令」を出し、外国船に燃料や水を与えて帰しました。

ペリーが来航する直前の日本は、ヨーロッパによって外交方針を揺るがされていました。

日本を脅かした軍艦

外交方針が揺らいでいた日本にとって、軍艦を率いたペリーの来航は脅威そのもの。
幕府はペリーから親書を受け取らざるをえませんでした。

ペリーは「来年回答をきかせてほしい」と言って、アメリカに帰っていきます。

幕府は与えられた猶予期間に江戸湾の防備を固めようと、台場の建設などを進めました。
でも、解決策を見出すことができないまま、1年が過ぎてしまいました。

約束どおり再来航したペリーの圧力

1854年2月(嘉永7年1月)、ペリーは昨年を上回る数の艦隊を率いて来航しました。

圧倒的な軍事力の差を見せつけられた幕府は、開国要求を拒否することは不可能だと判断。
幕府は要求を受け入れ、日米和親条約に調印し、200年以上続いた鎖国に幕を下ろしました。

日米和親条約の背景

日米和親条約が締結された背景には、世界情勢の変化とアメリカ国内の事情があります。
「アメリカが日本に興味をもった」だけではなく、経済的・戦略的理由が存在していました。

アメリカの太平洋進出(マニフェスト・デスティニー)

19世紀のアメリカは、領土を西へ西へと拡大していました。
1840年代にはテキサスやカリフォルニアを獲得し、西海岸を確保することに成功します。

当時のアメリカ社会には、マニフェスト・デスティニーという思想が広がっていました。
アメリカが西へ領土を拡大することは神から与えられた使命であるという考え方です。

西海岸の港を得たアメリカにとって、太平洋の先にある清への進出は最優先課題でした。

捕鯨船の補給基地としての日本

アメリカが日本に開国を要求した目的のひとつが、捕鯨船の補給基地です。

当時の欧米では、機械用潤滑油や街灯・家庭用のランプの燃料として大量の鯨油が必要でした。
世界中の海を駆け巡っていたアメリカの捕鯨船団にとって、日本近海は絶好の漁場でした。

ただ、長期間航海を続けるには、食料や薪、水の補給、船体の修理ができる寄港地が必要。
太平洋に補給拠点がなかったアメリカにとって、日本の開港は達成したい目標でした。

貿易船の補給基地としての日本

清への進出を見据えるアメリカが欲しがっていたのが、蒸気船を動かすための石炭です。

カリフォルニアから太平洋を横断する航路において、石炭を補給できる港が必要でした。
その航路のちょうど中央付近に位置していた国が日本でした。

日米和親条約の内容

日米和親条約は全12条から構成されています。

この条約は「平和と親善のための条約」と位置づけられています。
ただ、実際には、アメリカの要求が全面的に通った不平等条約でした。

下田と箱館(函館)の開港

① 下田(現在の静岡県下田市)
② 箱館(現在の北海道函館市)
の2つの港を開くことを約束させられました。

また、アメリカ船に対して、薪、水、食料、石炭などの物資の供給が定められました。

漂流民の救助と保護

日本近海で難破したアメリカ船の乗組員を救助することが義務付けられました。
救助された乗組員は下田や箱館に送られ、アメリカに引き渡されることになります。

これにより、捕鯨船員、貿易船員は安心して日本近海で活動できる環境が整いました。

片務的最恵国待遇

この条約の中で、後に日本を苦しめることになるのが「片務的最恵国待遇」です。

最恵国待遇とは、「日本がアメリカより良い条件で他国と条約を結んだ場合、その条件は自動的にアメリカにも適用される」というもの。

「片務的」がついているのは、アメリカから日本に対しては同様の特権が与えられていないからです。

領事の設置

アメリカは下田に領事(外交官)を置くことができると定められました。
これにもとづいて、後に初代アメリカ総領事・ハリスが下田に着任することになります。

注意点は「日米和親条約は自由な貿易を認める条約ではない」ということ。

日米和親条約は物資の供給や乗組員の救助などの「人道的な支援」が目的。
商人が品物を売買する「貿易(通商)」は許可されていませんでした。

与えた影響

日米和親条約の締結は「開国した」という事実にとどまりません。
日本の政治・経済・社会の根幹を揺るがし、幕末の動乱へ突入していくことになります。

イギリス・ロシア・オランダとの和親条約締結

アメリカと和親条約を結んだことを受け、他の西洋列強も一斉に日本へ押し寄せました。
最恵国待遇の規定があったため、幕府はアメリカと同様の条件を他国に認めざるをえませんでした。

イギリス・ロシア・オランダとの締結した和親条約
☑ 日英和親条約(1854年10月):イギリスと締結
☑ 日露和親条約(1855年2月):ロシアと締結
※北方四島を日本領とするなど、国境線も策定
☑ 日蘭和親条約(1856年1月):オランダと締結

こうして日本は欧米主要国に対して次々と港を開き、長年の鎖国は終わりました。

幕政に参加する大名の増加

ペリーの圧力に対処できなかった幕府の老中首座・阿部正弘。
阿部正弘は異例の事態として、大名や旗本に加えて、朝廷にも意見を広く求めました。

福山城公園内にある阿部正弘像。
1978年に市制施行60周年を記念して、彫刻家・陶山定人によって建立された。

これにより、政治から遠ざかっていた朝廷が決定権をもつ存在として浮上しました。

また、親藩・外様を問わず、
・薩摩藩(島津斉彬)
・水戸藩(徳川斉昭)
・福井藩(松平春嶽)
などの力ある大名(雄藩)が幕政に口を挟むようになりました。

尊王攘夷運動の勃発

開国という幕府の弱腰な姿勢に対して、激しい批判が巻き起こりました。

① 尊王(そんのう):天皇を敬い、尊ぶ思想
② 攘夷(じょうい):外敵(外国人)を打ち払う思想
という2つの言葉を組み合わせた尊王攘夷運動です。

外国の脅威から国を守れない幕府に代わって、天皇が国をまとめるべきだ。
このような考えが、志士(特に薩摩・長州・土佐などの下級武士)の間に広まりました。

やがて、「外国を排除する」という枠組みを超えて、「倒幕運動」へと移り変わっていきます。

まとめ:日米和親条約は明治維新への巨大な原動力

ペリーの来航と日米和親条約の締結は、平穏な日本に「世界の中の日本」という現実を叩きつけました。

もしペリーが来航せず、日米和親条約が結ばれていなければ…
日本は欧米列強の植民地支配の波に飲み込まれていたかもしれません。
もしくは、近代化が大幅に遅れていたかもしれません。

日米和親条約は、日本の歴史が「近代」に切り替わるターニングポイントとなったのです。
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