建武の新政とは?後醍醐天皇が失敗した5つの理由

150年以上続いた鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は「建武の新政」と呼ばれる政治を開始します。
建武の新政は2年強で崩壊してしまいますが、何故、うまくいかなかったのでしょうか。

建武の新政概要後醍醐天皇失敗した5つの理由を紹介します。

スポンサーリンク

建武の新政とは?

建武の新政とは、後醍醐天皇が元弘3年(1333年)7月4日に開始した政治を指します。

「建武の中興」とも呼ばれています。

建武の由来は中国の後漢の初代皇帝・光武帝が改めた元号「建武中元」。
倒幕に成功した後醍醐天皇は光武帝にあやかって採用したと考えられています。

建武の新政は延元元年(1336年)10月10日まで、続きました。

後醍醐天皇が建武の新政で失敗した5つ理由

紹介したように、建武の新政は元弘3年(1333年)7月4日から延元元年(1336年)10月10日まで続きました。
つまり、建武の新政は2年強で崩壊したことになります。

後醍醐天皇が建武の新政で失敗した理由は5つあります。

政務が停滞した

後醍醐天皇は、
① 摂政(天皇を補佐して判断を下す)
② 関白(天皇を補佐して政務を行う)
を置かず、上皇や法王が代行する院政をも否定し、天皇が全ての裁断を下す独裁体制を目指します。

後醍醐天皇のその考えが色濃く現れたのは、土地領有の変更です。

鎌倉幕府が滅亡する前、後醍醐天皇の第3皇子・護良親王は北条政権下で所領(土地)を失った武士に令旨を出し、所領の回復を認めていました。
所領の回復を認めてほしい武士は護良親王のもとを訪れ、討幕運動に参加しました。

おゆう
おゆう

所領の回復は兵を集める絶好の手段だったんです。

でも、鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は護良親王が令旨を出していたことに不満を抱きます。
天皇に権力を集中させたかったからです。

そこで、護良親王の令旨をもって所領を取り戻すことを禁止します。
そして、個別安堵法を公布して、土地領有の変更については天皇の綸旨を必要としました。

すると、所領に関するトラブルが続出し、間もなく訴訟が増加。
後醍醐天皇はそれぞれの要求に応えることができなくなります。

やがて、綸旨の発給が間に合わなくなり、政務が停滞してしまいました。

武士を蔑ろにした

幕府と武士(御家人)は「御恩と奉公」の契約を結んでいました。

戦における功績によって、
① 先祖代々受け継ぐ土地の支配を認める(本領安堵)
② 新たに土地を与える(新恩給与)
ことで、武士は幕府に仕えていたんです。

ところが、個別安堵法により、土地領有の変更について天皇の綸旨が必要になりました。
また、討幕で大きな功績をあげた武士のうち、所領を与えられたのはほんの一部だけ。

後醍醐天皇は所領のほとんどを公家や近親者に分け与えてしまいました。

今までの功績を蔑ろにされた武士は不満を抱きました。

空回りしている印象を与えた

土地領有の変更について、天皇の綸旨を必要とした個別安堵法を公布してすぐ。
「ここは○○の土地である」と書かれた偽の綸旨が横行します。

中には、所領争いを自作自演して、騒動を丸くおさめたからと褒美を要求する者も。

・どれが本物の綸旨なのか
・誰が土地を所有しているのか
を正確に把握できず、朝廷はもちろん、民も大混乱に陥りました。

後醍醐天皇は鎌倉幕府が150年をかけて作り上げた仕組みを急速に、大幅に変えようとしました。
民の気持ちがついていかないのも無理もありません。

個別安堵法の公布から1ヶ月後、後醍醐天皇は諸国平均安堵法を公布。

① 所領問題は諸国の国司が担当する
② 北条氏などの朝敵以外の所領は全て現状を承認する
ことにしました。

施策がコロコロ変わり、後醍醐天皇は空回りしている印象を与えてしまいました。

斬新な人事が理解されなかった

諸国平均安堵法を公布して2ヶ月後、後醍醐天皇は所領争いを扱う雑訴決断所を設置します。

雑訴決断所には100人が配置されましたが、その内訳は上級・下級貴族、武士とさまざま。
後醍醐天皇は優秀な人材を身分に関係なく登用したんです。

実力主義の現代では、身分に関係なく、優秀な人材が登用されるのは当たり前かもしれません。
でも、当時は身分や出身がまだまだ重視された時代。
中には、武士と一緒に働くことを嫌がる貴族もいました。

後醍醐天皇の人事は周囲に理解してもらえませんでした。

優秀な人材を登用したといっても、政治的能力の有無は別。
中には、政務の処理能力のない者もいました。
後醍醐天皇の人事は政務が停滞した原因の一つといえるかもしれません。

大内裏造営の費用を負担させた

天皇の住まいである大内裏。
安貞元年(1227年)に火災に遭いましたが、大内裏を再建していませんでした。

そこで、後醍醐天皇は威厳を示すために大内裏の造営を試みます。

大内裏造営には莫大な費用がかかるため、
① 二十分の一税(新税)の導入
税を徴収する地頭からその収益の20分の1を徴収する
② 新通貨・紙幣(乾坤通宝)発行の計画
を行います。

討幕直後の民の生活は困窮していましたが、費用負担を強いられ、経済はますます混乱しました。

後醍醐天皇に愛想を尽かした足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻します。
後醍醐天皇の命を受けて、楠木正成や新田義貞が足利尊氏に立ち向かいました(建武の乱)。

でも、後醍醐天皇勢は敗北し続け、延元元年(1336年)10月10日に降伏。
建武の乱と共に、建武の新政は終わりを迎えました。

まとめ:誰も後醍醐天皇の理想についていけなかった!

建武の新政概要後醍醐天皇失敗した5つの理由を紹介しました。

① 政務が停滞した
② 武士を蔑ろにした
③ 空回りしている印象を与えた
④ 斬新な人事が理解されなかった
⑤ 大内裏造営の費用を負担させた
ため、後醍醐天皇に愛想を尽かす者が続出。

建武の乱で足利尊氏に敗北し、建武の新政はわずか2年強で終わりを迎えました。
後醍醐天皇は周囲が理解できないほどの理想家だったのではないでしょうか。

後醍醐天皇は大河ドラマ「太平記」に登場しています。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

タイトルとURLをコピーしました