「大楠公」と呼ばれる楠木正成に対して、長男・正行は「小楠公」という尊称で親しまれています。
楠木正行が親しまれる理由は、武将としての軍事的才能だけではありません。
楠木正行の逸話を紹介します。
住吉・天王寺の戦いで敵を助けた
貞和3年(1347年)11月に、
① 楠木正行
② 細川顕氏と山名時氏
の間で行われた住吉・天王寺の戦い。
住吉・天王寺の戦いでは、楠木正行軍が細川顕氏・山名時氏軍を破りました。
細川顕氏・山名時氏軍は敗走し、渡辺橋で大川に落ちて溺れてしまいます。
楠木正行は大川で溺れる敵兵を助け、怪我の手当てをしたり、服を用意したりしました。
そして、自分の軍に引き入れることなく、京に帰るよう言いました。
この翌年の貞和4年(1348年)1月、楠木正行と高師直の間で四條畷の戦いが行われます。
楠木正行軍と高師直軍には圧倒的な兵力差があり、戦が始まる前から、楠木正行の負けは見えていました。
それでも楠木正行に恩義を感じていた兵は、北朝方を離反して楠木正行方として参戦しました。
楠木正行が敵味方関係なく、傷ついた人々を助けてから530年後の明治10年(1877年)5月。
日本赤十字社の創始者・佐野常民が国際赤十字社に日本支部設立の申請を行います。
申請時、佐野常民は楠木正行のこのエピソードを紹介しました。
国際赤十字社は強く感動し、日本支部設立を認めるきっかけの一つになったといわれています。
大川沿いの大阪キャッスルホテルの前に、「小楠公義戦の跡碑」があります。
この石碑は昭和15年(1940年)に、敵を救った楠木正行の功績を称えてつくられました。
大阪メトロ谷町線・京阪本線・京阪中之島線「天満橋駅」からすぐのところにあるので、大阪市を訪れた時に、足を運んでみてはいかがでしょうか。
弁内侍との悲恋伝説があった
楠木正行の正妻は内藤満幸の娘・恭子。
ところが、楠木正行には弁内侍との悲恋伝説があります。

弁内侍は元弘元年(1331年)の元弘の変で倒幕の首謀者として処刑された日野俊基の娘。
日野俊基が亡くなり行き場をなくした弁内侍は、後醍醐天皇によって、後宮に女官として引き取られました。
後醍醐天皇の崩御後、弁内侍に惚れた高師直が後宮から連れ去ってしまいます。
道中偶然、楠木正行が弁内侍を乗せた輿と遭遇。
楠木正行は高師直の家来達を討ち取り、弁内侍は後村上天皇のいる後宮に無事帰ることができました。
後村上天皇は弁内侍を楠木正行の妻に迎えるように言いました。
ところが、楠木正行はこれを辞退します。
何故、楠木正行は弁内侍との縁談を断ったのでしょうか。
四條畷の戦いで死を覚悟していたから
楠木正行は高師直・師泰との戦(四條畷の戦い)を控えていました。
死を覚悟していた楠木正行は、

私は間もなく死ぬというのに、どうして今結婚することができましょうか。
と言って、辞退しました。
正妻と子供がいたから
紹介したように、楠木正行には正妻・恭子がいました。
恭子との間には当時3歳の息子がいて、更に恭子は妊娠中でした。
弁内侍との縁談を承諾するには、
① 恭子と離縁する
② 弁内侍を側室として迎える
しかありませんでした。
天皇が側室に迎える可能性があったから
紹介したように、日野俊基の死後、弁内侍は後宮に引き取られました。
後宮は天皇の妻や側室が住む場所。
つまり、弁内侍は後醍醐天皇や後村上天皇が側室に迎える可能性のある女性でした。
四條畷の戦いで楠木正行が自害したと知った弁内侍は出家します。
弁内侍のおろした髪は如意輪寺境内に埋められ、現在はその上に「至情塚」が建てられています。
まとめ:楠木正行の親しまれる理由は逸話にあり!
楠木正行の逸話を紹介しました。
① 敵味方なく相手を尊重する度量の広さ
② 一時的な感情に流されない冷静さ
が、楠木正行の親しまれる理由ではないでしょうか。
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