楠木正成が赤坂城の戦いで鎌倉幕府軍を苦しめた奇策とは?

楠木正成が歴史舞台に初めて姿を現した戦といわれる赤坂城の戦い。

赤坂城の戦いの概要、楠木正成鎌倉幕府軍を苦しめた奇策を紹介します。

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赤坂城の戦いとは?

赤坂城の戦いとは、元弘元年(1331年)9月11日から10月21日にかけて、護良親王を擁する楠木正成と鎌倉幕府の間で勃発した戦いを指します。

楠木正成の築いた赤坂城が舞台となったため、赤坂城の戦いと呼ばれます。

楠木軍の兵力500人に対し、幕府軍の兵力は推定1万人。
※太平記では、幕府軍の兵力は20万人から30万人と表現されていますが、信ぴょう性は乏しいです。

ただ、鎌倉幕府が4つの正規軍(大仏貞直・金沢貞冬・北条時見・足利尊氏軍)を派遣したことは判っています。

正規軍は10月16日に下赤坂城に到着しました。
そのため、9月11日から10月15日までは、幕府軍の一部が参戦しただけの小規模な戦いだったと考えられています。

楠木正成が鎌倉幕府軍を苦しめた奇策とは?

赤坂城は楠木正成が短期間で急いで築いたにわか造りの城。
そのため、幕府軍は赤坂城を簡単に攻略できるものだと思っていました。

でも、楠木正成の奇策により、幕府軍は苦戦を強いられることになります。

少人数で籠城した

紹介したように、楠木軍の兵力は500人。

わずか500人の兵を2つに分けて、
① 楠木正成軍200人は赤坂城に籠城
② 弟・楠木正季軍300人は山中に潜伏
しました。

戦を軽くみていた幕府軍は馬を降り、一斉に走って城を目指しました。

ところが、幕府軍が城を囲んだその時。
楠木正成軍が城内から、楠木正季軍が山中から弓矢を放ちます。

幕府軍は1000人を超える損害を出しました。

籠城するとみせかけて奇襲した

長期戦になるかもしれないと考えた幕府軍は各々陣を構え、鎧や兜を脱いだり、馬から鞍を下ろしたりして休憩に入ります。

すると、山中に潜伏していた楠木正季軍はもちろん、籠城していた楠木正成軍までも飛び出し、幕府軍を奇襲。
幕府軍は鎧や兜、鞍や馬を置き去りにして退却しました。

幕府軍が置き去りにした武具は住民がかき集めて売却。
民の暮らしが一時的に潤ったといわれています。

二重塀を切り落とした

体勢を立て直した幕府軍は、城を囲む塀を乗り越えて城に侵入しようと試みます。

実は、この塀は二重構造で、外側の塀は内側の塀と縄で結ばれていました。
縄を切れば、外側の塀だけを落とすことができたんです。

楠木正成は縄を斬り、塀に手をかけた幕府軍1000人を地面に突き落としました。
更に、大木や大石を投げかけ、幕府軍は700人を超える損害を出しました。

熱湯を浴びせた

弓矢、大木、大石とさまざまな攻撃を受けてきた幕府軍。
幕府軍は頑丈な盾に持ち替えて、城に近付きました。

すると、楠木正成は柄杓で熱湯を幕府軍に浴びせます。
幕府軍は大火傷を負う損害を出しました。

自害したように見せかけて落ち延びた

① 損害を被ったこと
② 攻略に日数がかかる
ことから、幕府軍は積極的攻撃から兵糧攻めの消極的攻撃に切り換えました。

ただ、紹介したように、赤坂城は楠木正成が築いたにわか造りの城。
長期間籠城できるだけの兵糧の蓄えはありません。

また、楠木正成が籠城している間に、笠置山が陥落し、後醍醐天皇は隠岐国に配流となりました。
このまま籠城し続けても、楠木軍が疲弊するだけでメリットがありません。

そこで、楠木正成は赤坂城に自ら火を放ち、自害したように見せかけて逃亡。
天皇の側近である真言宗の僧・文観や山伏の力を借り、楠木正成は落ち延びました。

幕府軍は城内の焼かれた遺体を楠木一族だと思い込み、鎌倉に帰りました。

まとめ:楠木正成の奇襲で幕府軍は消極的に…

赤坂城の戦いの概要、楠木正成鎌倉幕府軍を苦しめた奇策を紹介しました。

楠木正成軍500人に、幕府軍1万人が立ち向かった赤坂城の戦い。

楠木正成は、
① 少人数で籠城する
② 籠城するとみせかけて奇襲する
③ 二重塀を切り落とす
④ 熱湯を浴びせる
⑤ 自害したように見せかけて落ち延びる
などの奇策をとり、幕府軍を苦しめました。

逃亡した楠木正成は翌年、鎌倉幕府から赤坂城を奪い返します。

楠木正成は大河ドラマ「太平記」に登場しています。

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