小谷城の戦いで生き延びたお市が柴田勝家と自害した理由

戦国時代きってのおしどり夫婦といわれると浅井長政。
でも、お市の方が最期を一緒に迎えたのは柴田勝家でした。

小谷城の戦いで生き延びたお市柴田勝家自害した理由を紹介します。

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小谷城の戦いで生き延びたお市の方

永禄10年(1567年)9月に、織田信長の命令を受けて結婚したお市の方と浅井長政。

二人は政略結婚でしたが、夫婦仲はとても良く、
① 永禄12年(1569年)に茶々
② 永禄13年(1570年)に初
③ 天正元年(1573年)に江
を授かりました。

お市の方は初婚でしたが、浅井長政は再婚。
前妻・平井定武の娘との間に長男・万福丸、次男・万寿丸を授かっていました。

お市の方は万福丸、万寿丸を養子として迎えました。

元亀元年(1570年)に、
・金ヶ崎の戦い
・姉川の戦い
で織田信長を裏切り、浅井長政は越前国の朝倉氏に味方します。

織田信長は浅井長政の本拠地・小谷城から7キロメートルに位置する横山城を攻略。
豊臣秀吉に横山城を任せ、浅井長政を監視させました。

天正元年(1573年)8月、織田信長は一乗谷の戦いで朝倉義景を討ちます。
その後、織田信長はそのまま小谷城に進軍。

豊臣秀吉を使者として送り、降伏を呼び掛けましたが、浅井長政は応じませんでした。

自害を決意した浅井長政は、小姓・木村喜内之介に万福丸を託して、城外に逃がします。
そして、お市の方と3人の娘(茶々、初、江)を織田家臣・藤掛永勝に引き渡しました。

この時、お市の方は浅井長政と自害するつもりでした。
でも、4歳の茶々、3歳の初、生まれたばかりの江を置いて逝くことはできませんでした。

お市の方は3人の娘と一緒に叔父・織田信次のもとに身を寄せ、守山城で暮らします。
その後、織田信長のいる岐阜城に移りました。

お市の方が柴田勝家と自害した理由

未亡人となって9年が経った天正10年(1582年)。
清洲会議を経て、お市の方は織田家宿老・柴田勝家と再婚します。

ところが、お市の方と柴田勝家の夫婦生活はわずか8ヶ月で終わりを迎えました。

天正11年(1583年)4月、柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗北。

柴田勝家は本拠地・北ノ庄城(後の福井城)に帰ります。
すると、豊臣秀吉は1万8000人の兵で北ノ庄城を攻撃しました。

自害を決意した柴田勝家は家臣の妻子を城外へ逃がします。
そして、お市の方と3人の娘にも逃げるように言いましたが、お市の方は拒否。

柴田勝家と一緒に死ぬことを選択しました。

柴田勝家はお市の方の選択を受け入れましたが、3人の娘を道連れにはできません。
お市の方は3人の娘の命を保障するよう手紙を書き、豊臣秀吉に送りました。

小谷城の戦いでは自害を選択しなかったお市の方。

何故、北ノ庄城の戦いでは自害を選択したのでしょうか。

豊臣秀吉の側室にはなりたくなかった

「天下一の美人」と称されたお市の方。

お市の方に惚れていたのは、柴田勝家だけではありません。
北ノ庄城を脱出したら、豊臣秀吉の側室に迎えられることは容易に想像できました。

お市の方が豊臣秀吉の側室になりたくなかった理由は2つあります。

豊臣秀吉が嫌いだったから

お市の方は豊臣秀吉を嫌っていました。
というのも、小谷城の戦いで浅井長政が自害した後、豊臣秀吉は万福丸を探し出し、磔にして殺したからです。

万福丸は浅井長政が前妻との間に授かった長男ですが、お市の方にとって養子。
血の繋がりがなくても、豊臣秀吉を許せませんでした。

プライドが許さなかったから

また、豊臣秀吉には正室・寧々(高台院)がいました。

ご存知のように、豊臣秀吉と寧々の間には子供がいません。
でも、寧々はお市の方より2歳若く、子どもを授かる可能性がありました。

もし、お市の方が豊臣秀吉の側室となり、寧々とお市が子どもを授かったとしたら…
お市の方の産んだ子供が豊臣秀吉の嫡男になることはありません。

① 正室になれない
② 子供を授かったとしても嫡男になれない
織田信長の妹であるお市の方のプライドが許さなかったのではないでしょうか。

3人の娘について、心配事がなかった

天正11年(1583年)4月時点で、茶々は14歳、初は13歳、江は10歳でした。
江についてはまだ幼いかもしれませんが、当時であれば、茶々、初は嫁いでいてもおかしくない年齢。

また、豊臣秀吉は織田信長を慕っていました。
織田信長の血を引いている3人であれば、処刑されることはないと思ったのではないでしょうか。

自害する心の準備ができていた

戦で敗れた武将の妻は、夫と共に死ぬのが当たり前の戦国時代。

(織田信長の)妹でなければ、浅井長政と共に小谷城で死ぬはずだった。
お市の方もよく理解していました。

織田信長が亡くなり、後ろ盾を失ったお市の方。
柴田勝家と再婚した時、万が一の場合には、柴田勝家と共に死ぬことは分かっていたと思います。

柴田勝家が敗れた賤ヶ岳の戦いから、お市の方は自害する心の準備が整っていたのではないでしょうか。

まとめ:豊臣秀吉を嫌っていたからだけじゃない!

小谷城の戦いで生き延びたお市柴田勝家自害した理由を紹介しました。

浅井長政ではなく、柴田勝家と最期を共にしたお市の方。

そこには、
① 幼い娘を心配する母
② 血筋を絶やさない戦国時代の女性
としてのお市の方の生き方がありました。

ただ、茶々が豊臣秀吉の側室に迎えられるとは予想していなかったかもしれませんね。

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