豊臣秀頼と本多忠刻に先立たれた千姫!徳川家康との関係を家系図で解説

戦国時代の女性は、
・政略結婚をさせられる
・夫と共に自害することを求められる
など、過酷な人生を送りました。

父・徳川秀忠、母・江(崇源院)の長女・千姫もその一人です。

豊臣秀頼本多忠刻に先立たれた千姫生涯、千姫と徳川家康関係家系図解説します。

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豊臣秀頼と本多忠刻に先立たれた千姫!

千姫は慶長2年(1597年)生まれで、父・徳川秀忠、母・江(崇源院)の間に長女として誕生しました。

千姫が生まれた時代は、
① 豊臣秀吉が亡くなる
② 関ヶ原の戦いが勃発する
など、まさに歴史が激動した時代でした。

豊臣秀頼に先立たれる

側室・淀殿(茶々)との間に、56歳で三男・豊臣秀頼を授かった豊臣秀吉。
ところが、残念ながら、豊臣秀吉の死期は刻々と迫っていました。

死期が近いと悟った豊臣秀吉は、(徳川家康を含む)五大老を豊臣秀頼の後見人に任命。

そして、豊臣秀頼と徳川家康の孫・千姫の結婚を約束させて、この世を去りました。

豊臣家と徳川家の間で姻戚関係を築けば、徳川家康が豊臣秀頼を攻撃することはないと考えたんですね。

ところが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、徳川家康は豊臣遺臣を一掃。
その3年後の慶長8年(1603年)、徳川家康は江戸幕府を開いて、初代将軍となりました。

豊臣秀頼が天下人の座から外されたことを心配しつつも、淀殿は豊臣秀吉の遺言を守ります。

千姫はわずか7歳で豊臣秀頼と結婚し、侍女と共に大坂城に移り住みました。
政略結婚でありながらも、千姫と豊臣秀頼の夫婦仲は良好でした。

ところが、慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに、大坂冬の陣が勃発。
徳川家と豊臣家が対立します。

一度は和解したものの、約半年後には大坂の夏の陣が勃発し、豊臣家はついに滅亡の時を迎えました。

この時、千姫は豊臣秀頼と淀殿の助命を嘆願します。
でも、徳川家康は千姫の要求を受け入れず、結果、豊臣秀頼と淀殿は自害。

豊臣秀頼が側室との間に授かった天秀尼を連れて、千姫は大坂城を脱出しました。

本多忠刻に先立たれる

それから半年も経たないうちに、千姫は徳川四天王の本多忠勝の孫・本多忠刻と結婚します。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

大坂夏の陣で大坂城から救出された時、千姫は本多忠刻に一目惚れをしていたんです。

徳川秀忠は「戦国武将の妻でありながら、豊臣秀頼、淀殿と自害しないなんて」と千姫を責めました。

でも、徳川家康は可愛い孫の恋を応援。
トントン拍子に話が進み、本多忠刻と結婚した千姫は長男・幸千代、長女・勝姫を授かりました。

ところが、元和7年(1621年)、幸千代がわずか3歳で亡くなります。
その5年後の寛永3年(1626)年には、本多忠刻、姑・熊姫、母・江が亡くなり、千姫は勝姫と共に出家しました。

寛永5年(1628年)には、勝姫が因幡鳥取藩主・池田光政に嫁ぎ、千姫はついに一人で暮らします。

その後、
① 徳川家光の三男・徳川綱重やその生母・夏
② 叔父・徳川頼宣(徳川家康の十男)
と暮らすなどして、各地を転々。

寛文6年(1666年)2月、肺炎を患い、70歳でこの世を去りました。

千姫と徳川家康の関係を家系図で解説

ちらりと紹介しましたが、徳川家康は千姫の祖父にあたります。

家系図を見て分かるとおり、
☑ 千姫の父は徳川秀忠
☑ 千姫の義父は豊臣秀吉
☑ 千姫の弟は徳川家光
となります。

千姫の親族はそうそうたるメンバーだったんですね。

まとめ:千姫は地に足がついた生き方をした!

豊臣秀頼本多忠刻に先立たれた千姫生涯、千姫と徳川家康関係家系図解説しました。

二人の夫と長男に先立たれた千姫。
晩年は叔父や甥と暮らし、幕府や大奥から頼りにされました。

過酷な人生を送った千姫だからこそ、周囲を気遣うことができたのかもしれませんね。

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