関白・豊臣秀吉が
・全国の大名に出陣を要請
・豊臣軍22万人で小田原城を包囲
しても、北条氏はすぐには降伏しませんでした。
小田原征伐で北条氏が勝ち目があると思っていた理由、降伏した理由を紹介します。
小田原征伐で北条氏に勝ち目はあった?
天正14年(1586年)、東海を治める徳川家康が上洛。
天正16年(1588年)には、豊臣秀吉は東海から中四国、九州まで支配下に置きました。
残るは、関東、東北のみ。
豊臣秀吉は勢いに乗り、関東、東北を従わせようとしていました。
豊臣秀吉のターゲットになったのは、初代当主・北条早雲以来、関東を支配し続けてきた北条氏。
第4代目当主・北条氏政は長男・北条氏直に跡を継がせましたが、引き続き実権を握っていました。
豊臣秀吉は全国の大名に上洛するよう命じます。
でも、豊臣秀吉を認めていない北条氏政・氏直親子は上洛しませんでした。
近い将来、豊臣秀吉が関東に攻め入る…
と予想していた北条氏政。
予想は的中し、天正18年(1590年)4月、居城・小田原城を22万人の豊臣軍に囲まれてしまいます。
それでも北条氏政はすぐに降伏しませんでした。
北条氏に勝ち目はあったのでしょうか。
小田原城は難攻不落だった
豊臣秀吉と戦になるかもしれないと予想していた北条氏政は数年前から戦の準備を進めていました。
上杉謙信や武田信玄の攻撃をも退けたことがありました。
北条氏政は小田原に通じる2つの道、
① 箱根路に山中城
② 足柄路に足柄城
を築き、小田原城を更に強固な城にしました。
小田原城に進軍する豊臣軍を、まずは山中城や足柄城で迎え撃とうと考えたんです。
更に山中城や足柄城で敗北した場合に備えて、小田原城で籠城戦にもち込めるよう準備しました。
小田原城だけでなく、城下町を土塁の塀でスッポリと囲んだんです。
土塁の塀の長さはなんと9キロメートルにも及びました。
土塁の塀で囲まれた城下町では、寺の鐘を溶かして、鉄砲や刀、鎧や兜を作らせました。
また、城に食糧を運び込ませ、農民にも武器を持たせて、支城を守らせました。
北条氏政の命令により徴兵されたのは、15歳から60歳までの農民。
身分に関係なく、5万6000人もの兵を用意しました。
伊達政宗と同盟を結んでいた
北条氏政が豊臣秀吉との戦に備えている間、第5代目当主・北条氏直は領地拡大を進めていました。
東北では奥州の伊達政宗が領地拡大を進めていました。
そのため、お互いスムーズに領地を拡大できるよう、北条氏と伊達氏は同盟を結びました。
豊臣秀吉に攻められたら、東北から伊達政宗が応援にやって来てくれると考えていました。
徳川家康が豊臣秀吉を裏切り、味方してくれるのではないかとも期待していました。
降伏した理由は?
22万人の豊臣軍を前にしても、北条氏は勝ち目があると思っていました。
でも、籠城してから3ヶ月後に降伏します。
何故、北条氏は降伏したのでしょうか。
豊臣軍が圧倒的に強かったから
小田原征伐が始まる前の天正16年(1588年)、豊臣秀吉は刀狩り令を出していました。
刀狩令を出す前、民は農業と戦を兼業していました。
普段農業で生計を立てている農民が、戦に出て武士のように戦えるわけがありません。
また、田植えや刈り取りなどの農業の繁忙期には退却せざるを得ませんでした。
豊臣秀吉との戦に勝っても、負けても、小田原城で徴兵された農民は褒美を与えられるわけではありません。
戦が終われば、農業に従事するいつもの生活が待っています。
北条軍の士気はどんどん低下し、
命を助ける!領地を与える!
と言えば、すぐに降伏する支城がほとんどでした。
関東には、北条氏の支配する城が70ほどありましたが、豊臣秀吉は次々と攻略しました。
伊達政宗に裏切られたから
小田原城が包囲されてから2ヶ月後。
北条氏の同盟相手・伊達政宗が100人の兵を率いて関東にやってきました。
ところが、伊達政宗の足を運んだ先は豊臣秀吉の陣。
戦の繰り広げられている関東を避けて遠回りし、北陸、信濃を経て、伊達政宗は豊臣秀吉の本陣にたどり着きました。
当然、豊臣秀吉は伊達政宗が遅れて参陣したことを怒ります。
でも、伊達政宗を傘下に加えれば、東北は戦わずして手に入ります。
豊臣秀吉は伊達政宗をその場で処罰しませんでした。
伊達政宗が豊臣秀吉に味方すると知った北条軍の士気はますます低下しました。
豊臣秀吉が一夜で城を築いたから
小田原城の支城を攻略しても、小田原城で籠城されては北条氏に勝てません。
そこで、小田原城内の北条軍の士気を下げることに注力します。
豊臣秀吉は小田原城から西に4キロメートルほど離れた笠懸山に城を作ることにしました。
豊臣秀吉は近江から石垣作りの専門職集団・穴太衆(あのうしゅう)を呼び寄せます。
城作りには3万人が動員され、自然の石を切り出してそのまま積み上げる野面積みが採用されました。
笠懸山の樹木に隠して築城を進めたため、小田原城内の北条軍は築城に全く気付きませんでした。
伊達政宗が豊臣秀吉に味方してから3週間が経った頃、笠懸山に築いた城が完成。
その後、笠懸山の樹木を伐採し、小田原城から城が見えるようにしました。
小田原城内の北条軍は突然現れた笠懸山の城に驚きます。
石垣を積み上げて紙を貼っただけの城。
でも、遠くからは立派な城に見えたからです。
豊臣秀吉は大きな城を一晩で作れる力をもっている!
豊臣秀吉を相手に戦をしても、籠城しても勝てるわけがない…
小田原城内の北条軍の士気は更に下がりました。
豊臣秀吉はその城で能や茶会を楽しみ、小田原城に聞こえるような大きな声で騒ぎました。
小田原城で籠城を続ける北条軍は豊臣軍が羨ましくて仕方がありませんでした。
また、築いた城は石垣山一夜城と呼ばれました。
黒田官兵衛の説得に心を打たれたから
北条軍の士気がしっかり下がったと判断した豊臣秀吉は、北条軍の重臣に寝返るよう働きかけます。
そして、豊臣秀吉は策士・黒田官兵衛を呼び、小田原城へ送り込みました。
黒田官兵衛に北条氏政・氏直親子との交渉を任せたんです。
黒田官兵衛は北条軍の妻子に酒や食料を持たせて贈り、北条軍の出方を探りました。
すると、北条軍から御礼の品として鉄砲が贈られてきました。
武器を敵に贈るなら、北条軍は降伏するかもしれない。
そう考えた黒田官兵衛は鎧を脱ぎ捨て、刀も持たず、小田原城に乗り込みました。
そして、「武蔵国、相模国の2ヶ国を北条氏の所領として認める」、「命は助ける」と説得します。
北条氏政は聞く耳をもちませんでした。
でも、黒田官兵衛は「100年以上続いた北条氏を断絶させていいのか」と一生懸命説得し続けました。
黒田官兵衛の必死の説得により、北条氏直は籠城戦を止め、豊臣秀吉と和議を結ぶことを承諾。
北条氏政は当主・氏直の決断に従うしかありませんでした。
こうして、小田原征伐は北条氏の敗北をもって終わりを迎えました。
まとめ:北条氏は足軽上がりの豊臣秀吉を見くびっていた!
小田原征伐で北条氏が勝ち目があると思っていた理由、降伏した理由を紹介しました。
難攻不落の小田原城で伊達政宗を待っていた北条氏。
でも、伊達政宗に裏切られ、豊臣秀吉の力を見せつけられ、降伏せざるを得ませんでした。
小田原征伐により、北条氏は関東の支配権を失います。
また、伊達政宗が豊臣秀吉に従ったことで、豊臣秀吉は東北を手に入れます。
豊臣秀吉はついに天下統一を成し遂げたのでした。
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