慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いた徳川家康。
全国の大名を従えることになった徳川家康は、
① 親藩
② 譜代大名
③ 外様大名
に分類します。
徳川家康が親藩、譜代大名、外様大名に分類した目的、影響をわかりやすく解説します。
親藩、譜代大名、外様大名とは?
「大名」という言葉が使われるようになったのは平安時代後期。
私田の一種・名田の所有者を大名と呼んでいました。
鎌倉時代以降、所領と家臣団をもつ有力武士を大名と呼ぶようになります。
そして、江戸時代に入ると、大名は石高1万石以上の所領を与えられた藩主を指す言葉になりました。
江戸時代初めには、全国で200以上の大名が存在していたといわれています。
① 親藩:徳川家出身の大名
② 譜代大名:関ヶ原の戦いの前から徳川家臣だった大名
③ 外様大名:関ヶ原の戦いの後に徳川家臣になった大名
の3つに分けました。
徳川家康が親藩、譜代大名、外様大名に分類した目的
徳川家康が親藩、譜代大名、外様大名に分類したのは、
① 今まで敵対してきた大名の反乱を未然に防ぐ
② 政権の安定を図る
ためです。
紹介したように、江戸時代初めには、全国で200以上の大名が存在していました。
豊臣政権を乗っ取り、自ら政権を確立した徳川家康。
全国の大名を統制しなければ、徳川家康自身も政権を乗っ取られてしまうかもしれません。
そこで、大名を親藩、譜代大名、外様大名に分け、一斉に国替えをします。
紹介したように、親藩は徳川家出身の大名で、最も信頼できる身内。
① 街道の要所
② 京都や大坂などの大都市
③ 佐渡や石見などの鉱山のある地域
といった要所に配置されました。
外様大名は関ヶ原の戦いが終結するまで敵だった者達。
信頼の最も薄い外様大名は江戸から遠ざけられます。
そして、外様大名が手を組んだり、謀反を企てたりしないように、周辺の親藩や譜代大名に監視させました。
水戸や常陸国は江戸の北の要所だったことから、佐竹氏は秋田に転封され、水戸と常陸国には親藩が配置されました。
外様大名に対する風当たりは強く、
① 法令違反
② 跡継ぎの不在
などを理由に、改易、減封、転封を行いました。
外様大名が去った所領には譜代大名が配置され、幕府の支配力は更に強まりました。
徳川家康が親藩、譜代大名、外様大名に分類した影響
親藩、譜代大名、外様大名をバランス良く配置し、外様大名を積極的に排除した徳川家康。
幕府のこの支配体制により、戦のない泰平の世が訪れました。
戦で手柄をあげてきた武将は暇になり、武具の手入れや城の警備、藩主の警護などをして過ごします。
戦闘訓練はもちろん、体力づくりや乗馬をしなくなってしまいました。
そのため、江戸幕府が開かれてから265年後に起きた討幕運動では、幕府軍は新政府軍に太刀打ちできませんでした。
まとめ:徳川家康は好き嫌いで大名を分類し、支配体制を確立した!
徳川家康が親藩、譜代大名、外様大名に分類した目的、影響をわかりやすく解説しました。
徳川家康は大名を3つに分類することで、今まで敵対してきた大名の反乱を未然に防ぎ、政権の安定を図りました。
更に、外様大名には積極的に改易や減封、転封を行いました。
徹底した支配体制により、泰平の世を築きあげた徳川家康。
この265年後に、まさか討幕運動が起きるとは思ってもいなかったのではないでしょうか。
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