小田原征伐における徳川家康の動き!北条氏と秀吉を仲介したって本当?

北条氏が関東の支配権を失うこととなった小田原征伐。
小田原征伐は豊臣秀吉と北条氏政の戦いですが、徳川家康も深く関わっていました。

小田原征伐における徳川家康動き北条氏豊臣秀吉仲介した結果を紹介します。

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小田原征伐における徳川家康の動き!

小田原征伐では、徳川家康はどのような行動をとっていたのでしょうか。

小田原征伐が行われる少し前から、徳川家康の動きを探っていきます。

豊臣家臣になる

天正12年(1584年)に、
① 同盟を結んだ徳川家康・織田信雄
② 豊臣秀吉
の間で勃発した小牧・長久手の戦い。

徳川・織田連合軍が優勢だったものの、戦いは勝敗がつかないまま和睦することになりました。

和睦の証として、徳川家康は次男・於義丸(後の結城秀康)を豊臣家に送りました。

その後、徳川家康を家臣に迎えたかった豊臣秀吉は、妹・朝日姫を継室として送ります。
更に、母・大政所を人質として岡崎城に送りました。

根負けした徳川家康は豊臣秀吉に仕えると決めます。

二人の関係は、義兄弟、主君・家臣となりました。

北条氏と豊臣家の板挟みになる

天正16年(1588年)4月、豊臣秀吉は全国の大名に上洛するよう命じました。
ところが、関東の北条氏政・氏直親子は豊臣秀吉を認めず、上洛要請に応じませんでした。

豊臣秀吉が北条氏に対して怒りを感じていることは、徳川家康にもすぐ分かりました。
でも、徳川家康はできるだけ中立を保とうとしました。

おゆう
おゆう

というのも、徳川家康は北条家とも姻戚関係だったからです。

本能寺の変の後、旧武田領である甲斐国・信濃国をめぐって、
① 徳川家康
② 北条氏政・氏直親子
③ 上杉景勝
の間で、天正壬午の乱が勃発。

戦いが長引き、勝っても負けても大きな被害が出ると判断した北条氏政・氏直親子は、
① 徳川氏が甲斐国・信濃国
② 北条氏が上野国
を治めることで和睦しました。

この時、和睦の証として、徳川家康は次女・督姫を北条氏直に嫁がせていました。

豊臣秀吉は北条氏と姻戚関係である徳川家康に交渉、説得を任せます。

中立を保ちたかった徳川家康も豊臣秀吉の家臣。
豊臣秀吉の命令に従わないわけにいきません。

徳川家康は何度も書状を送り、実権を握る北条氏政に上洛を勧めました。

ところが、徳川家康の勧めに応じたのは、北条氏政の弟・北条氏規。

上洛した北条氏規は、

近いうちに、兄・氏政も上洛します。

と言って、豊臣秀吉の怒りをしずめます。

ところが、待てど暮らせど、北条氏政は上洛しません。
おまけに、北条氏は豊臣家臣・真田氏の名胡桃城に攻め入ってしまいます。

豊臣秀吉は北条氏の行動を反逆と捉え、天正17年(1589年)11月、北条氏に宣戦布告。
徳川家康を含む全国の大名に、小田原城にすぐ集まるよう命じました。

小田原征伐の先鋒を任される

豊臣秀吉は徳川家康に先鋒を任せます。

徳川家康は駿府城から3万人の兵を率いて出陣。
豊臣軍が富士川を渡れるよう、橋を作りました。

小田原城は総勢22万人の豊臣軍に囲まれます。
北条氏政はそれでもなお籠城し続けました。

豊臣秀吉と徳川家康は笠懸山から小田原城を見下ろし、北条軍の様子をうかがっていました。

この時、豊臣秀吉は、

(北条氏に勝利した暁には)
① 関東7ヶ国を徳川家康に与える
② 代わりに、徳川家康の所領・5ヶ国は取り上げる

と話します。

何十年とかけて治めてきた国を豊臣秀吉に差し出すことに、徳川家康は正直納得できませんでした。

でも、豊臣秀吉の力を見せつけられた徳川家康は国替えに応じるしかありませんでした。

国替えの話は豊臣秀吉と徳川家康が連れションしている時に行われました。
「関東の連れ小便」という言葉は二人のこの行動が由来です。

やがて訪れる敗北に耐えられなくなった北条氏直が小田原城を出ます。
そして、徳川家康の陣を訪れ、降伏を申し出ました。

こうして北条氏政も小田原城を開城せざるを得なくなりました。

徳川家康が北条氏と豊臣秀吉を仲介した結果

徳川家康に降伏を申し出た北条氏直は、「北条家の当主として切腹して責任を取る」と言いました。

自分の命と引き換えに、父・氏政や家臣の命は助けてほしい!

と言うんです。

徳川家康にとって、北条氏直は娘婿。
北条氏政より、北条氏直を失いたくありませんでした。

北条氏直の申し出を受けて、徳川家康は豊臣秀吉に助命嘆願。

豊臣秀吉は北条氏直の命は助けるが、氏政には切腹してもらうと言います。

北条氏政は切腹を免れませんでした。
でも、徳川家康の取りなしがあって、北条氏直は高野山に流刑となり、命だけは助けられました。

まとめ:徳川家康は豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献!

小田原征伐における徳川家康動き北条氏豊臣秀吉仲介した結果を紹介しました。

豊臣氏、北条氏のどちらとも姻戚関係だった徳川家康。

徳川家康は豊臣秀吉が北条氏を討伐することを恐れ、上洛するように何度も呼びかけました。
でも、北条氏政は応じず、小田原征伐が行われ、北条氏は関東の支配権を失うこととなりました。

豊臣秀吉をとるか、北条氏政・氏直親子をとるか、徳川家康にとって、苦渋の決断だったのではないでしょうか。

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