戦国時代から江戸時代にかけて、東南アジアに形成された日本人町。
日本人町に住んでいた日本人といえば、山田長政を思い浮かべる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
日本人町の頭領・山田長政の生涯と壮絶な最期、妻と子孫を紹介します。
日本人町の頭領・山田長政は何をした?
山田長政は天正18年(1590年)生まれで、駿河国富厚里(静岡市葵区)の出生。
父は紺屋(染物屋)の商人で、山田長政は武芸を学んだり、臨済寺で学問を習ったりしました。
武士になる
やがて、武士になりたいという夢を抱いた山田長政は沼津に移り住みます。
そして、沼津藩主・大久保忠佐に仕え、駕籠かき(駕籠を担ぐ職業)として働きます。
これは、駕籠かきには駕籠を担ぐのに適した大柄な体格の持ち主が選ばれたことに由来しています。
大柄な体格を活かして駕籠かきに励んでいた山田長政は武士の身分を得ることに成功しました。
堺から外国に出向する
ところが、武士の身分を得るなり、山田長政は駕籠かきを辞めて駿府に帰ってしまいます。
何の目的もなく駿府に帰った山田長政は、街を散歩して暇をつぶしていました。
当時、駿府は国際都市としてにぎわっていました。
というのも、駿府には大御所である徳川家康が住んでいたからです。
慶長13年(1608年)、徳川家康は三男・徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居しました。
徳川秀忠に将軍職を譲ったといっても、実権を握っているのは徳川家康。
徳川家康は駿府を江戸と並ぶ政治・経済の中心地にしようと、外国使節団を駿府に呼び込んでいたんです。
やがて、山田長政は、
① 商人が朱印船貿易を行っていること
② 外国に渡航して、日本人町を作っていること
などを耳にします。
慶長17年(1612年)、山田長政は台湾に向かう豪商に頼んで、堺から出港する船に乗せてもらいました。
アユタヤの日本人町の頭領になる
山田長政の乗り込んだ船は台湾に到着した後、南方のシャム(タイ)に向かいます。
そして、シャムの首都・アユタヤにあった日本人町の頭領・オープラ純広のもとで働き、貿易について一から学びました。
更に、山田長政は「織田信長の子孫だ」と言って、日本人町を回りました。
紹介したように、山田長政の父は紺屋の商人。
駿府で生まれ育った山田長政と織田信長は全く関係ありません。
でも、日本人町の人々はもちろん、シャムの人々は山田長政の嘘を信じました。
日本の情報が少ない日本人町、シャムには山田長政の嘘を疑う人がいなかったんです。
山田長政は日本人、シャム人から一目置かれる存在となります。
やがて、山田長政はアユタヤ王朝の津田又左右衛門を筆頭とする日本人傭兵隊に加わり、武芸の才能を発揮。
アユタヤ郊外にある日本人町の頭領となりました。
山田長政はアユタヤに出入りする船を監視したり、貿易をしたりして、勢力を拡大しました。
アユタヤで軍神になる
山田長政の運命を変える大きな出来事が起こります。
当時アジアに進出をしていた、
① オランダの艦隊
② スペイン・ポルトガルの連合艦隊
がマカオを巡ってシャム湾で戦を開始。
勝利したスペイン艦隊は勢いに乗ってアユタヤを侵攻しました。
アユタヤ国王・ソンタム(ボーロマラーチャー1世)は山田長政に相談。
山田長政はスペイン艦隊に火を放ち、アユタヤから撤退させることに成功しました。
ソンタムから信頼を得た山田長政は「オークヤー・セーナピモック」という名前を与えられます。
山田長政は戦の神様として親しまれることとなりました。
リゴールに左遷される
寛永5年(1628年)、病を患ったソンタムは、
息子・チェーターティラート(後のボーロマラーチャー2世)を頼む。
と言い残して亡くなりました。
当時、アユタヤ王朝では弟が跡継ぎとなるのが一般的。
でも、ソンタムから遺言を預かった山田長政はチェーターティラートを国王に即位させました。
当時、チェーターティラートは15歳で、政治を行うには若過ぎました。
そこで、ソンタムの従兄弟・プラーサートトーン(後のサンペット5世)は、
チェーターティラートをサポートする!
と言って、実権を握りました。
チェーターティラートはプラーサートトーンに不信感を抱き、排除しようと試みます。
ところが、反対に、プラーサートトーンに殺されてしまいます。
続いて、チェーターティラートの弟・アーティッタヤウォンが国王となります。
でも、当時、アーティッタヤウォンは10歳。
10歳の子どもに政治を行うことができるはずもなく、プラーサートトーンは引き続き実権を握りました。
同じ過ちを犯してはならないと、山田長政はプラーサートトーンを排除しようとします。
でも、プラーサートトーンによって、山田長政は一足先にリゴールに左遷されてしまいました。
最期は?
リゴールで山田長政を待ち受けていたのは、隣国・パタニーとの戦。
激戦の末、山田長政はリゴール平定に成功しますが、足に大けがを負ってしまいます。
一方、アユタヤではプラーサートトーンがアーティッタヤウォンから国王の座を奪い、自らが国王となっていました。
プラーサートトーンにとって、アユタヤで戦の神様として親しまれている山田長政は邪魔な存在。
プラーサートトーンは山田長政の怪我を心配したふりをして、毒入りの軟膏を送りました。
軟膏に毒が入っていると思ってもいなかった山田長政は、寛永7年(1630年)、軟膏を塗って数時間後に40歳でこの世を去りました。
妻と子孫は?
ソンタムから厚い信頼を寄せられていた山田長政はソンタムの妹・ルタナと結婚したといわれています。
そして、山田長政はルタナとの間にクン・セーナーピムックを授かります。
山田長政の死後はクン・セーナーピムックがリゴールを統治しました。
ところが、リゴールに滞在していた日本人の中で対立が生じ殺されてしまいます。
また、「日本人が反乱を起こすかもしれない」と心配したプラーサートトーンによって、アユタヤの日本人町は焼き討ちされてしまいました。
まとめ:タイに憧れ、タイに尽くした山田長政
日本人町の頭領・山田長政の生涯と壮絶な最期、妻と子孫を紹介しました。
一介の駕籠かきだった山田長政は夢を追い求めてタイに移り住みました。
そして、日本人町の頭領として勢力を拡大しましたが、最期は国政に巻き込まれて毒殺されてしまいました。
息子であるクン・セーナーピムックもタイで命を落とし、山田長政とその子孫は悲しい最期を遂げることとなります。
移動手段の整っていない時代に、タイで活躍した山田長政の勇気と功績はもっと評価されてもいいのかもしれません。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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