石田三成襲撃事件が起きた理由と経過、結果とその後をわかりやすく

慶長4年(1599年)、武断派と呼ばれる豊臣家臣が文治派の筆頭・石田三成を襲撃する事件が勃発。

石田三成襲撃事件が起きた理由経過結果その後わかりやすく紹介します。

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石田三成襲撃事件が起きた理由

天正10年(1582年)の山崎の戦いで明智光秀を討ち、織田信長の仇を取った豊臣秀吉。
有力な織田家臣や織田家老を抑え、豊臣秀吉は自身の政権を確立します。

やがて、豊臣家臣は、
① 軍事を担当する武断派
② 政治を担当する文治派
に分かれることとなりました。

武断派>文治派から文治派>武断派へ

・天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い
・天正14年(1586年)の九州平定
・天正18年(1590年)の小田原征伐
など、武断派は数々の戦で活躍します。

ところが、奥州仕置きを経て豊臣秀吉が天下を統一すると、戦の数はグッと減少。
もちろん、小規模な戦は起きましたが、武断派の出る幕のない程度の戦がほとんどでした。

出番の少なくなった武断派は権力を失い、文治派が大きな権力を握るようになりました。

武断派と文治派の対立が深まる

天下統一を果たした豊臣秀吉が注目したのは朝鮮。
天正20年(1592年)と慶長2年(1597年)に行われた朝鮮出兵では、武断派が現地で活躍します。

でも、武断派の活躍を豊臣秀吉に報告する係は文治派。

朝鮮出兵中に豊臣秀吉の母・大政所が亡くなり、豊臣秀吉は精神状態が不安定になりました。
豊臣秀吉は文治派からの報告を受け、武断派に怒りをぶつけることも少なくありませんでした。

自分達の朝鮮現地での苦労は、現地で戦っていない文治派に分かるはずがない。
文治派は自分達の活躍を正しく報告してくれなかったのではないか。

と、武断派は文治派を疑うようになりました。

武断派は石田三成を討つと決断

・主君・豊臣秀吉
・武断派と文治派の仲介役・前田利家
が生きている間は、武断派は怒りを押し殺していました。

でも、
・慶長3年(1598年)に豊臣秀吉
・慶長4年(1599年)に前田利家
が相次いで亡くなると、武断派の怒りは爆発。

① 福島正則(尾張清洲城主)
② 加藤清正(肥後熊本城主)
③ 池田輝政(三河吉田城主)
④ 細川忠興(丹後宮津城主)
⑤ 浅野幸長(甲斐甲府城主)
⑥ 加藤嘉明(伊予松山城主)
⑦ 黒田長政(豊前中津城主)
武断派7人(七将)は文治派の筆頭・石田三成を討つ計画を立てるに至りました。

石田三成襲撃事件の経過

石田三成を討つ計画を立てた武断派は、五大老の筆頭・徳川家康を味方につけます。

何故、武断派は徳川家康を味方につけたのでしょうか。

実は、石田三成は五奉行の筆頭でもありました。
徳川家康と石田三成は自然に対立し合う立場だったんです。

慶長4年(1599年)、武断派が大阪城下にある加藤清正邸に集合。
石田三成を討とうと加藤邸を出発しましたが、情報が漏れ、石田三成は島左近と共に佐竹義宣邸に逃げました。

石田三成を匿うなら、佐竹義宣を討つ!

と言って、武断派は佐竹邸に向かいます。

佐竹義宣に迷惑をかけたくなかった石田三成は佐竹邸をなんとか抜け出し、自宅に帰りました。

石田三成は女輿に乗って、佐竹邸を脱出したといわれています。

石田三成の自宅は伏見城内にあり、石田三成は伏見城の守備を活かして自宅に立てこもります。
武断派は伏見城を包囲し、膠着状態が続きました。

石田三成襲撃事件の結果とその後

武断派が石田三成邸のある伏見城を包囲し、事件は膠着状態に。
石田三成襲撃事件の結果とその後はどうなったのでしょうか。

石田三成襲撃事件の結果

石田三成が立てこもり、戦闘が長引くかと思ったその時。
武断派の味方をしていた徳川家康が石田三成との仲介を買って出ます。

この騒ぎを収める条件として、
☑ 石田三成は五奉行の座を降りて隠居する
☑ 朝鮮出兵における武断派の功績を査定し直す
ことを提示。

徳川家康が提示した条件を受け入れ、石田三成は武断派と和解し、事件は収まりました。

石田三成襲撃事件のその後

政界から引退することとなった石田三成は、徳川家康の次男・結城秀康に護送され、佐和山城に隠居します。

でも、豊臣遺臣の中には、石田三成を慕う者も多く、徳川家康や武断派に不満を抱く者が石田三成に連絡を取ります。
こうして、石田三成襲撃事件は終結したものの、翌年には、関ヶ原の戦いが勃発します。

まとめ:石田三成は助命されるも隠居!

石田三成襲撃事件が起きた理由経過結果その後わかりやすく紹介しました。

武断派が文治派に不満を抱き、対立が深まったことで起きた石田三成襲撃事件。
石田三成は徳川家康に助けられましたが、命と引き換えに、政界を引退することとなりました。

事件は終結したものの、翌年には関ヶ原の戦いが起きます。
この事件から、徳川家康と石田三成の対決は既に始まっていたのかもしれませんね。

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