豊臣秀吉が故郷を離れたのは天文19年(1550年)。
弟・秀長が豊臣秀吉に仕えたのは永禄5年(1562年)。
この12年間、豊臣秀吉はどのような生活を送っていたのでしょうか。
豊臣秀長が仕える前の兄・秀吉の生活を紹介します。
豊臣秀長が兄・秀吉に仕えたのはいつ?
豊臣秀長が兄・秀吉に仕えたのは永禄5年(1562年)です。
仕える前、豊臣秀長は生まれ故郷・尾張国愛知郡中村で、母・仲、妹・旭と一緒に農業をしていました。
木下小一郎、羽柴長秀、羽柴秀長、豊臣秀長と名乗り、周囲から「大和大納言」と呼ばれた豊臣秀長。
生まれた時、豊臣秀長に姓氏はありませんでした。
豊臣秀吉は継父・竹阿弥と仲が悪く、天文19年(1550年)に家を出て、隣の遠江国にいました。
天文9年(1540年)生まれの豊臣秀長は豊臣秀吉の3歳年下。
自由奔放な兄・秀吉に対し、弟・秀長は堅実な生活を送っていました。
永禄4年(1561年)、豊臣秀吉は10年ぶりに故郷に帰ります。
豊臣秀吉が帰省した目的は豊臣秀長を家来にすることでした。
①米の出来が良かった
②妹・旭の結婚が決まった
ため、豊臣秀長は翌年の永禄5年(1562年)に家を出て、豊臣秀吉に仕えました。
豊臣秀長が仕える前の兄・秀吉はどんな生活をしていた?
紹介したように、豊臣秀吉は天文19年(1550年)に家を出て、隣の遠江国にいました。
天文19年(1550年)から弟・秀長が仕える永禄5年(1562年)までの12年間。
豊臣秀吉はどのような生活を送っていたのでしょうか。
時系列でみていきましょう。
今川義元の陪臣・松下之綱に仕える
故郷を出て、遠江国に向かった豊臣秀吉。
豊臣秀吉が初めて仕えたのは頭陀寺城主・松下之綱でした。
つまり、豊臣秀吉は今川義元に間接的に仕えたことになります。
松下之綱のもとで、豊臣秀吉は小納戸役を務めました。
小納戸役は城主の身の回りの雑用人を取りまとめる係。
隣の尾張国からやって来た足軽の子である豊臣秀吉にとって大出世でした。

ところが、豊臣秀吉を妬んで悪口を言う者が現れます。
物がなくなると、豊臣秀吉に疑いをかけ、所持品検査を行いました。
松下之綱は豊臣秀吉の能力を高く評価していましたが、度々起きる争いをしずめることができませんでした。
結果、豊臣秀吉は解雇されてしまいました。
織田信長に仕える
天文23年(1554年)頃から、豊臣秀吉は織田信長に小者として仕えます。
松下之綱のもとで小納戸役を務めた経験のある豊臣秀吉は小人頭から推薦され、18歳で小人(雑用係)になります。
この時、織田信長の草履を懐に入れて温めて、織田信長の目に留まりました。
その後馬屋係を務め、22歳で小人頭になりました。
永禄4年(1561年)には、織田信長の居城・清洲城の塀を修理する普請奉行を務め、足軽に加わります。
故郷・中村から名字を中村と名乗り、織田家の馬廻・木下雅楽助のチームに配属されました。
ねねと結婚する
永禄4年(1561年)8月、弓頭・浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚。
ねねの母・朝日は豊臣秀吉と結婚することに反対します。
でも、ねねは反対を押し切って、豊臣秀吉に嫁ぎました。
・豊臣秀吉の身分が低い
・ねねが反対を押し切って嫁いだ
ことから、二人の結婚式は藁とござを敷いて行われるほど、質素なものでした。
豊臣秀長を家来に誘う
この頃、豊臣秀吉は足軽組頭を務めていました。
豊臣秀吉が求めていたのは、信頼できる血の繋がった家臣。
そこで、10年ぶりに故郷に帰り、弟・秀長を家来に誘います。
紹介したように、豊臣秀長は永禄5年(1562年)から豊臣秀吉に仕えました。
織田信長の直属の家臣になる
永禄5年(1562年)、豊臣秀吉は突然窃盗の疑いをかけられてしまいます。
そこで、疑いを晴らすべく、豊臣秀吉は盗賊を自ら捕らえました。
織田信長は30貫文を与え、豊臣秀吉を直属の家臣にしました。
木下藤吉郎と名乗る
豊臣秀吉の面倒を見ていた木下雅楽助は、「木下」の名字を秀吉に与えます。
この時、豊臣秀吉は「中村」から「木下」に改め、木下藤吉郎と名乗ったといわれています。
豊臣秀長は木下小一郎長秀と名乗りました。
まとめ:豊臣秀吉は昔から気配り上手でフットワークが軽かった!
豊臣秀長が仕える前の兄・秀吉の生活を紹介しました。
松下之綱に解雇され、織田信長に仕えることになった豊臣秀吉。
後に天下を統一した豊臣秀吉は松下之綱を捜し出し、遠江国久野城主に任命しました。
農民から突然武士になることを迫られた豊臣秀長。
豊臣秀長は義理堅い兄・秀吉を信じてついていこうと決めたのではないでしょうか。
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