
織田信長を御父と呼び、副将軍や管領になるように求めた足利義昭。
二人は仲良しでしたが、あることがきっかけで決裂します。
足利義昭と織田信長の決裂の原因・殿中御掟と異見十七箇条が与えた影響を紹介します。
足利義昭と織田信長の決裂の原因
三方ヶ原の戦いで、織田信長・徳川家康連合軍が武田信玄軍に敗北。
足利義昭は織田信長に京の警備を任せています。
そのため、織田信長を打ち負かす武田信玄のほうが頼りになると思いました。
その他、
① 永禄12年(1569年)に織田信長がつくった殿中御掟
② 元亀3年(1572年)に織田信長が出した異見十七箇条
が足利義昭の気に触ったといわれています。
殿中御掟と異見十七箇条が与えた影響
紹介したように、足利義昭と織田信長が決裂したきっかけの一つは殿中御掟と異見十七箇条です。
殿中御掟とは?
・永禄12年(1569年)1月14日に9箇条
・2日後の16日に追加で7箇条
出された、合計16箇条からなる殿中御掟。
殿中御掟が出されたのは、足利義昭の将軍就任から3ヶ月後のこと。
室町幕府の再興を目的に、訴訟手続を条文化したものです。
殿中御掟の9箇条
足利義昭が将軍に就任したとはいえ、幕府は既に有名無実化していました。
そこで、織田信長は将軍の権力や幕府のあり方について再確認が必要だとし、まずは9箇条を示しました。
殿中御掟9箇条をWikipediaから引用させていただきます。
① 御部屋衆・定詰衆・同朋衆など恒常的に出仕する者は前例通りとする。
② 公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば参勤すること。
③ 惣番衆は、おのおの将軍に伺候すること。
④ 幕臣の家来が御所に用向きがある際は、当番役のときだけにすること、それ以外に御所に近づくことは禁止する。
⑤ 訴訟は正規の手続を経ずに直接将軍に内奏してはならない。
⑥ 奉行衆が出した「意見」を無視して将軍の一存で決めてはならない。
⑦ 訴訟の審議を行う式日は従来通りとする。
⑧ 担当の申次でない者を取次として将軍に伝えてはならない。
⑨ 諸門跡やその坊官、比叡山延暦寺の衆徒、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。
足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。Wikipediaより引用
9箇条のうち、
・前半4箇条は将軍に仕える人々について序列を明確にしたもの
・後半4箇条は訴訟手続に関する規定
・最後の第9条は幕府の構成員ではない者の扱い
を示しています。

幕府の構成員ではない者とは、門跡、比叡山延暦寺の衆徒、医師や陰陽師など。
足利義昭の兄で、第13代将軍・足利義輝は門跡や医師を殿中によく呼んでいました。
そのため、織田信長は足利義昭が同じ末路をたどることを心配し、排除しようとしたのかもしれません。
殿中御掟の7箇条
そして、2日後、織田信長は7箇条を追加しました。
こちらもWikipediaから引用させていただきます。
① 当知行している寺社本所領をいわれなく押領してはならない。
② 請取沙汰(第三者を当事者であるかのように装わせて有利な判決を得る行為)をしてはならない。
③ 喧嘩口論を禁止し、違反する者は法をもって成敗する。これに合力するものも同罪。
④ 理不尽な催促をすることを禁止する。
⑤ 将軍への直訴を禁止する。
⑥ もし訴訟をしたいのであれば奉行人を通すこと。
⑦ 当知行の地については請文を提出の上、下知を受けること。Wikipediaより引用
足利義昭は寺社本所領を横領する、家臣に所領を与えないなど、道義に反する行為をしていました。
第1条、第7条で足利義昭の違反行為を批判。
そして、第5条で「将軍に直接話すのではなく、取次役である自分を通す」ように要求しました。
こうして、足利義昭の行動は徐々に規制されるようになりきます。
異見十七箇条とは?
元亀3年(1572年)、織田信長は異見十七箇条を提出。
異見十七箇条は殿中御掟のような箇条書きではなく、足利義昭に対する批判が細かく書かれています。

殿中御掟と同じようにwikipediaから引用を…
と思いましたが、あまりにも細かいので割愛。
例えば、第13代将軍・足利義輝が同じ行動をしていたという前置きをして、足利義昭が朝廷を軽んじている、参内を怠っていると批判。
殿中御掟で触れたにも関わらず、足利義昭に仕える家臣が「十分な恩賞を与えてもらえない」と自分に泣きついてくると批判。
更には、世間の人々が足利義昭を「悪御所」と呼んでいる、思い返せば第6代将軍・足利義教もそう呼ばれていたと批判。
足利義昭に関わる亡くなった将軍の名前を出し、足利義昭をことごとく批判しました。
与えた影響
織田信長にとっては、殿中御掟で要求したことを守らない足利義昭に対して、当然の異見を述べたまで。
でも、プライドの高い将軍・足利義昭には、織田信長の異見は通じません。
足利義昭は織田信長に怒りをこらえきれません。
信長包囲網を張る武田信玄や浅井長政、朝倉義景などの戦国武将に加担することにしました。
織田信長は人質を差し出して和睦を試みようとします。

ところが、足利義昭はこれを拒否し、近江の今堅田城と石山城で挙兵しました。
織田信長はあっという間に城を攻略し、勝敗は決まったようなものでした。
それでも、織田信長は再度和睦を申し入れますが、足利義昭が受け入れず、槇島城の戦いが勃発。
城内から織田信長討伐の御内書を送りました。
自分の死を隠すように言い残していたため、足利義昭は武田信玄の死を知らなかったんです。
武田信玄の死によって、信長包囲網は瓦解。
敗北した足利義昭は京から追放されてしまいました。
まとめ:プライドの高い足利義昭 VS 率直な織田信長
足利義昭と織田信長の決裂の原因・殿中御掟と異見十七箇条が与えた影響を紹介しました。
殿中御掟と異見十七箇条で批判された足利義昭。
足利義昭は武田信玄を頼りにしていましたが、知らない間に亡くなっていました。
武田信玄の死を知っていたら、足利義昭は和睦に応じたのでしょうか。
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