次男でありながら結城秀康が徳川家康から冷遇された理由と死因

人気アクションゲーム・鬼武者のモデルにもなった徳川家康の次男・結城秀康。

武術、体格に優れていた結城秀康は「周囲から素晴らしい武将だ」と評価されていました。
でも、結城秀康は豊臣家、結城家に養子に出され、徳川家康から冷遇される人生を送りました。

次男でありながら結城秀康徳川家康から冷遇された理由死因を紹介します。

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次男でありながら結城秀康が徳川家康から冷遇された理由

何番目の子どもであっても、自分の子どもは可愛いもの。
でも、徳川家康は誕生した結城秀康を次男として認知せず、豊臣家に養子に出しました。

何故、結城秀康は徳川家康から冷遇されたのでしょうか。

その答えは、
① 結城秀康の母の身分
② 結城秀康の出生の秘密
③ 兄・信康の死

の3つにあります。

結城秀康の母は正室・築山殿の侍女だったから

結城秀康は天正2年(1574年)生まれで、徳川家康と側室・長勝院(お万)の間に次男として誕生しました。

長勝院は徳川家康の従兄妹であり、正室・築山殿の侍女でした。

当時、側室となるためには、正室の許可が必要でした。

でも、長勝院は側室として認められる前に懐妊し、築山殿の怒りに触れました。

長勝院は築山殿の住む岡崎城を追い出され、徳川家康が拠点としていた浜松城にも入れませんでした。
そのため、結城秀康は徳川家臣・本多重次の手配した中村家住宅で生まれました。

結城秀康には双子の弟・永見貞愛がいたから

生母が側室として認められなかったとはいえ、結城秀康が徳川家康の次男であることに変わりはありません。

それでも、徳川家康は結城秀康を岡崎城、浜松城に入れず、また、認知もしませんでした。

おゆう
おゆう

というのも、結城秀康には双子の弟・永見貞愛がいたからです。

当時、双子や三つ子といった二人以上の赤ちゃんを一度に授かることは不吉とされていました。
徳川家康は結城秀康、永見貞愛を疎み、二人を殺すように命じました。

二人を殺したくなかった長勝院は、
・永見貞愛を死産したことにして実家に
・結城秀康を本多重次に
託しました。

徳川家康は結城秀康に会おうともしませんでした。
それどころか、結城秀康がどのように成長しているのか知ろうともしませんでした。

結城秀康の兄・信康が亡くなっていたから

結城秀康が徳川家康と顔を合わせたのは3歳になってから。
といっても、徳川家康が主体的に結城秀康に会ったわけではありません。

徳川家康の長男・信康は城に入れてもらえない結城秀康に同情します。
そして、結城秀康に会うよう徳川家康に頼み込んだんです。

徳川家康が3年ぶりに会った結城秀康に対してどのような印象を抱いたのかは分かりません。
でも、この時も、結城秀康は認知してもらえませんでした。

結城秀康が認知されたのは、それから2年後。
天正7年(1579年)、築山殿が亡くなった後、結城秀康は徳川家康の次男としてやっと認知されました。

豊臣秀吉の養子となる

築山殿が亡くなったすぐ後、徳川家康の跡継ぎである信康が切腹に追い込まれます。
そのため、次男として認知された結城秀康が跡継ぎ候補となりました。

おゆう
おゆう

ところが、結城秀康は徳川家を離れることとなります。

天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いで、徳川家康は豊臣秀吉と和睦することになりました。

和睦する時には、子どもを和睦相手に送るのが一般的。
結城秀康は養子(人質)として、豊臣家に送られました。

子どものいなかった豊臣秀吉は結城秀康を可愛がります。
結城秀康はわずか10歳で河内国に1万石を与えられました。

・九州平定の岩石城(福岡県田川郡)攻め
・日向国平定
などで功績を認められた結城秀康は豊臣姓を与えられました。

結城晴朝の婿養子となる

豊臣秀吉から我が子のように可愛がられていた結城秀康。

ところが、その翌年、天正17年(1589年)に、豊臣秀吉に長男・豊臣鶴松が誕生します。
豊臣秀吉の関心は結城秀康から豊臣鶴松に移り、生後間もない豊臣鶴松が跡継ぎに指名されました。

豊臣秀吉は53歳まで跡継ぎを授かりませんでした。
そのため、結城秀康の他、小早川秀秋や池田輝政などの養子を迎えていました。

豊臣鶴松と養子の間で跡継ぎ争いが起きてはいけない…

そう心配した豊臣秀吉は迎えた養子を他家に送りたいと考えました。

天正18年(1590年)、徳川家康は豊臣秀吉によって関東に移封されます。
関東移封に伴い、豊臣秀吉は結城秀康を結城氏の婿養子として送り出すことにしました。

下総国結城氏17代目当主・結城晴朝は小田原征伐の功績を称えられ、
① 関東八屋形に名を連ねる有力大名・小山氏
② 織田氏
の所領を与えられていました。

結城晴朝の所領は関東移封された徳川家康の所領に接していました。
そのため、結城家と徳川家の間に親族関係を築かせ、和平を保たせる狙いがありました。

豊臣秀吉は結城晴朝の姪・江戸鶴子と結城秀康を結婚させ、結城秀康は豊臣家を出ました。

結城秀康の死因

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が亡くなると、結城秀康は徳川家康に仕えます。

・伏見城を守備する
・関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する
などして、徳川家臣として活躍しました。

徳川家康は「結城秀康と相談して上杉景勝との戦いの準備を進めるように」と伊達政宗に指示を出していました。
徳川家康が結城秀康を優秀な武将として認めていたことが分かりますね。

慶長5年(1600年)11月、結城秀康は越前国68万石を与えられ、北ノ庄城(現在の福井城)に移りました。

慶長11年(1606年)、結城秀康は伏見城の留守を務めることとなりました。
ところが、病を患い、北ノ庄城に戻ります。

翌年、慶長12年(1607年)、梅毒が原因で、34歳の若さで亡くなりました。

まとめ:侍女から生まれた双子の兄・結城秀康の人生は波瀾万丈

次男でありながら結城秀康徳川家康から冷遇された理由死因を紹介しました。

結城秀康は、
・父・徳川家康によって豊臣家に
・養父・豊臣秀吉によって結城家に
養子に出され、波瀾万丈の人生を送りました。

徳川家康から優秀な武将だと認められていた結城秀康。
・生母が高貴な身分だったら
・双子の兄として生まれていなかった
結城秀康が江戸幕府第2代将軍だったかもしれませんね。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。

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