豊臣秀吉の補佐役として知られる豊臣秀長。
豊臣秀長の父は二人いて、どちらが実父かによって、豊臣秀吉との関係が変わります。
豊臣秀長の両親、秀吉との関係や子孫を家系図でわかりやすく紹介します。
豊臣秀長の両親は?
豊臣秀長は天文9年(1540年)生まれ。
尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に誕生しました。
豊臣秀長の母は仲で、後に「大政所」と呼ばれる女性。
豊臣秀長の父は織田信秀の元同朋衆だった竹阿弥。
仲と竹阿弥との間には、豊臣秀長の他、妹にあたる旭(後の朝日姫)が誕生しました。

ここまで紹介してきた豊臣秀長の出自は、
土屋知貞が編纂した「太閤素性記」に記載されています。
中村の代官・稲熊助衛門右の娘が土屋知貞に語ったものを、土屋知貞が書き留めて完成したといわれる「太閤素性記」は信憑性が高い資料とされています。
江戸初期に真田増誉が編纂した「明良洪範」も「太閤素性記」をもとに書かれています。
そのため、豊臣秀長の出自はこれが最も一般的な説です。

ところが、京都にある瑞龍寺が書いた「木下家系図」では、
豊臣秀長と旭は仲の前夫・弥右衛門の子となっています。
つまり、豊臣秀長の実父は竹阿弥、あるいは弥右衛門となります。
弥右衛門が実父であれば、竹阿弥は養父となります。
秀吉との関係
豊臣秀長の実父は竹阿弥、あるいは弥右衛門だったかもしれないと紹介しました。
豊臣秀長の母・仲は前夫・弥右衛門との間に、豊臣秀吉と智子(後の日秀尼)の2人の子どもを授かっていました。
豊臣秀長の実父が弥右衛門であれば、豊臣秀長と秀吉は実の兄弟となります。
豊臣秀長の子孫を家系図でわかりやすく
豊臣秀長には正室・慈雲院と側室・光秀尼がいました。
慈雲院との間に、長男・羽柴与一郎を授かるも幼くして亡くなってしまいます。
側室・光秀尼との間に授かった娘・おみやは、自身の養子・豊臣秀保に嫁がせました。
その他、生母は不明ですが、おきく(後の大善院)を授かっています。
おきくは長門国長府藩の初代藩主・毛利秀元に嫁ぎました。
天正19年(1591年)、豊臣秀長は50歳で亡くなります。
豊臣秀長は豊臣秀保を跡継ぎにしていましたが、豊臣秀保はわずか17歳でこの世を去りました。

豊臣秀吉は甥・豊臣秀次の子どもに大和豊臣家を継がせようとします。
ところが、秀次事件が起き、豊臣秀次の子ども全員は処刑されました。
結果、豊臣秀吉が考えていた構想は実現せず、大和豊臣家は断絶してしまいました。
豊臣秀長の両親と兄弟、子孫を紹介しましたが、これを家系図で表すと次のようになります。
(最も一般的な説で作成。)
まとめ:豊臣秀吉・秀長は同父、もしくは異父兄弟!
豊臣秀長の両親、秀吉との関係や子孫を家系図でわかりやすく紹介しました。
豊臣秀長の実父は竹阿弥、もしくは弥右衛門で、
☑ 実父が竹阿弥なら、豊臣秀吉は異父兄
☑ 実父が弥右衛門なら、豊臣秀吉は同父兄
となります。
長男の羽柴与一郎、跡継ぎの豊臣秀保を若くして失った豊臣秀長。
豊臣秀吉は亡き弟を大切に思い、大和豊臣家を存続させようとしましたが、残念ながら断絶してしまいました。
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