豊臣秀吉がバテレン追放令でキリスト教を禁止した理由と与えた影響

織田信長によって、日本国内で布教活動が認められたキリスト教。
でも、織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉はキリスト教布教活動を禁止しました。

何故、豊臣秀吉は布教活動を禁止したのでしょうか。

豊臣秀吉バテレン追放令キリスト教禁止した理由と与えた影響を紹介します。

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豊臣秀吉がバテレン追放令でキリスト教を禁止した理由

天文18年(1549年)に、スペイン人宣教師・フランシスコ・ザビエルによって伝来したキリスト教。

フランシスコ・ザビエルに続いて、ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスが来日。
織田信長はイエズス会の宣教師によるキリスト教布教活動を認めました。

織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉もキリスト教布教活動を認めます。

ところが、九州を平定した豊臣秀吉は、
① イエズス会の活動
② 影響を受けた大名の行動
を知り、危機感を抱きます。

そこで、天正15年(1587年)にバテレン追放令を出し、宣教師(バテレン)を国外に追放することにしました。

キリシタンが神社や寺を破壊していたから

九州はイエズス会の布教の先進地。
豊臣秀吉が想像していた以上に、キリシタン(信者)がたくさんいました。

キリシタンにとって、他教の神社や寺、墓は不要。
キリシタンは神社や寺、墓を次々と破壊していました。

長崎に領地をもっていたから

三城城主・大村純忠と甥・有馬晴信は、
① 長崎(大村町、島原町、平戸町、横瀬浦町、外浦町、分知町の6つの町)
② 茂木
③ 浦上
をイエズス会に寄付していました。

イエズス会は長崎、茂木、浦上に教会を次々と建てます。
また、要塞を築いて、まるで城のように守りを固めていました。

人身売買が行われていたから

少年や少女が安価に売買され、手足に鎖を繋がれた状態で、南蛮に連れ去られていました。

当時植民地を拡大していたヨーロッパでは当たり前の光景で、人身売買は商取引の一つでした。
でも、豊臣秀吉は人身売買を非道な行いとして認めませんでした。

第106代天皇・正親町天皇は、
① 宣教師が京都に住むこと
② 宣教師が京都で布教活動を行うこと
を禁止し、宣教師を京都から追い出していました。関白太政大臣である豊臣秀吉は、九州におけるキリシタンの動きを見過ごすことができませんでした。

与えた影響

豊臣秀吉の発したバテレン追放令により、宣教師は20日以内に国外退去を命じられます。

長崎、茂木、浦上の宣教師に対しては、
☑ 領地を没収し、豊臣秀吉の直轄地とする
☑ 築いた要塞を破壊する
☑ 宣教師は平戸に移る
☑ 罰金銀500枚を豊臣秀吉に、銀50枚を執行吏・藤堂高虎に支払う
ように命じました。

一方で、南蛮船の往来は禁止せず、今までと同様の貿易の継続を求めました。

更に、
・国内における布教、居住の自由を認める
・軍は教会や修道院に立ち入らないことを約束する
・宣教師の課税、課役を免除する
など、寛容な処置をとりました。

長崎を拠点に活動するイエズス会に対して厳しく接した一方で、その他のイエズス会に対して寛容な処置をとった豊臣秀吉。

何故、豊臣秀吉はイエズス会を徹底的に排除しなかったのでしょうか。

その理由は、
① ヨーロッパの造船、砲撃の技術を習得したかった
② 鉛や硝石を手に入れたかった
③ 仲のいいキリシタン大名の反発を恐れた
からです。

豊臣秀吉の発したバテレン追放令では、イエズス会の活動規模を縮小できませんでした。

つまり、バテレン追放令は特に大きな影響を与えなかったということになります。

まとめ:豊臣秀吉はキリスト教を禁止し切れなかった!

豊臣秀吉バテレン追放令キリスト教禁止した理由と与えた影響を紹介しました。

イエズス会の領地保有、人身売買を知った豊臣秀吉は嫌悪感を抱きます。
関白太政大臣という立場も加わり、バテレン追放令を出してキリスト教を禁止することにしました。

でも、豊臣秀吉は、
① ヨーロッパの造船、砲撃の技術を習得したかった
② 鉛や硝石を手に入れたかった
③ 仲のいいキリシタン大名の反発を恐れた
ため、バテレン追放令は中途半端なものとなり、特に大きな影響を与えませんでした。

バテレン追放令は豊臣秀吉の苦渋の決断だったことがうかがえますね。

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