唐の第9代皇帝である玄宗は、楊貴妃とのロマンスで有名ですよね。
玄宗はどのような人物なのでしょうか。
玄宗の生涯を14章に分けて紹介します。
睿宗と竇徳妃の間に生まれる
玄宗は685年に洛陽で生まれました。
玄宗の名前は李隆基といい、唐の第5代皇帝・睿宗の第3子です。
でも、玄宗は睿宗の兄であり、当時皇太子だった李弘の養子になりました。
李弘は子どもがいなかったため、玄宗を養子に迎えました。
祖母・則天武后に気に入られる
玄宗が生まれる一年前の684年に、睿宗が即位。
そして、睿宗の第一子・李成器が皇太子の座に就きました。
ところが、690年に、睿宗の母(つまり、玄宗の祖母)である則天武后が皇帝に即位。
睿宗は皇太子に、李成器は皇太孫に格下げとなりました。
則天武后は李氏を排除して、武氏中心の政権をつくろうとしました。
そのため、排除されたくない李氏は、則天武后やその親戚である武氏に媚を売って、なんとか生き残ろうと画策しました。
でも、玄宗は武氏に媚を売るどころか、李氏であることを誇りに思っていました。
そんな玄宗を則天武后は骨のある面白い孫だと気に入りました。
他の李氏は幽閉生活に等しい日々を送っていましたが、玄宗には邸宅が与えられました。
韋皇后や安楽公主を排除する
705年、宰相・張柬之が譲位を求めるクーデターを起こし、睿宗の兄である中宗が即位しました。
中宗は684年に54日間だけ皇帝の座に就いていたため、即位ではなく、復位したというのが正しいかもしれません。
710年には、則天武后のように女性でありながら皇帝になりたいと思っていた韋皇后と中宗の第8皇女・安楽公主が中宗を毒殺しました。
復位した中宗の皇帝在位期間はわずか5年5ヶ月でした。
このままでは、韋皇后に政権を奪われると感じた玄宗は、睿宗の妹(つまり、玄宗の叔母)である太平公主と共に、クーデターを起こし、韋皇后、安楽公主、そして、則天武后や中宗の秘書を務めていた上官婉児を殺しました。
上官婉児は韋皇后に愛人を紹介するなど、後宮の風紀を乱したり、また、韋皇后を背後で動かしたりしていました。
皇太子になる
韋皇后が亡くなった後、睿宗が再び皇帝になり、玄宗はクーデターの功績を認められ、皇太子になりました。
皇帝になる
712年、睿宗が玄宗に譲位し、玄宗は唐の第9代皇帝として即位しました。
太平公主を排除する
玄宗は国のトップに立ちましたが、玄宗を脅かす人物がいました。
一緒に韋皇后、安楽公主を排除した太平公主です。
太平公主は玄宗を皇帝の座から引きずり降ろしたいと思っていました。
というのも、太平公主には皇帝になりたいという野心はありませんが、引き続き安定した暮らしを送りたいと願っていました。
いつか玄宗に排除されるのではないかと思った太平公主は、玄宗の代わりに李成器を皇帝にして、背後で動かそうと考えていたんです。
太平公主がクーデターを計画していると知った玄宗は、太平公主がクーデターを起こす前に、クーデターを起こすことにしました。
やられる前にやってやるっていうことです。
玄宗のクーデターは成功し、太平公主は処刑されました。
こうして、玄宗は確固たる地位を築き上げました。
開元の治を築く
宰相・姚崇、宋璟と共に、税制を改革したり、地方を守る節度使制を導入したりしました。
また、敵対していた異民族を征討し、国内の治安を安定させて、経済や文化の発展に努めました。
武恵妃を側室に迎える
玄宗には王皇后という妻がいましたが、王皇后との間に子どもを授からず、713年、当時14歳の武恵妃を側室に迎えました。
張諫之のクーデターによって、武氏一族は捕らえられ、武恵妃は宮婢として宮廷入りしました。
武恵妃は玄宗の寵愛を独占し、7人もの子どもを授かり、皇后になろうとしたり、自分の子どもを皇太子にしようとしたりと、いろいろ画策しました。
でも、監察御史・潘好礼が反対し、実現しないまま、737年、37歳の若さで亡くなりました。
楊貴妃を側室に迎える
武恵妃を失った玄宗に、側近・高力士は楊貴妃を紹介しました。
楊貴妃は玄宗の第18皇子・李瑁と結婚していましたが、楊貴妃を気に入った玄宗は、740年に二人を離縁させ、745年、楊貴妃を正式に側室として迎えました。
自分の寵愛した武恵妃が産んだ子どもから、妻を奪うとは、玄宗にとって、楊貴妃がどれだけ魅力的な女性だったかが分かりますね。
楊貴妃を側室に迎えた玄宗は、楊貴妃の亡き両親に役職や称号を追贈したり、姉妹に称号を授け、莫大な化粧代を与えたりし、楊氏一族を優遇しました。
また、又従兄の楊国忠を、刺史や侍御史を監督する御史中丞に任命しました。
国が傾き始める
玄宗は楊貴妃と過ごす時間を何よりも優先し、朝廷に出なくなりました。
玄宗の代わりに、宰相・李林甫が朝廷を取り仕切りましたが、752年、李林甫が亡くなると、楊国忠が宰相になって大きな権力を握りました。
安史の乱が勃発する
楊国忠と同じぐらい、玄宗から気に入られていた人物がいました。
節度使・安禄山です。
安禄山は范陽節度使、平盧節度使、河東節度使に任命され、中国北東部で18万人もの兵を統括していました。
安禄山を排除したかった楊国忠は「安禄山が謀反を企んでいる」と玄宗に嘘をつきました。
安禄山は謀反を企んでいませんでしたが、楊国忠は嘘をつき続け、755年、挑発に乗った安禄山は反乱を起こしてしまいました。
安は安禄山の安、史は安禄山の友人で一緒に反乱を起こした史思明の史です。
楊貴妃を失う
誰もが安史の乱をすぐに鎮圧できると思っていましたが、反乱は長期にわたりました。
安禄山が洛陽を攻め落とすと、玄宗は楊貴妃を含む楊氏一族を引き連れて、蜀(四川省成都市)に逃げました。
続いて、楊貴妃の姉・虢国夫人、韓国夫人も殺されました。
安史の乱が勃発する前に、秦国夫人は亡くなっていました。
一緒に逃げた楊氏一族で生き残ったのは楊貴妃だけ。
玄宗は楊貴妃を失いたくないと反対し続けました。
でも、兵の怒りは静まらず、高力士に楊貴妃の最期を見届けさせました。
粛宗に譲位する
安史の乱は治まらず、第3皇子である皇太子・李亨(後の粛宗)に対処を任せ、玄宗は再び蜀へ逃げることにしました。
李亨の側近・李輔国は李亨に即位するようにアドバイスし、李亨は玄宗の許可を得ず、皇帝に即位しました。
気力をすっかり失った玄宗は、粛宗が皇帝に即位することを認めて譲位しました。
77歳で崩御する
757年、郭子儀や粛宗の第1皇子・李俶(後の代宗)、第2皇子・李係が長安と洛陽を奪還し、12月、玄宗は長安に戻りました。
長安に戻ったものの、玄宗が皇帝に復位することを恐れた李輔国は玄宗を軟禁し、高力士を巫州(湖南省懐化市)に流しました。
まとめ
玄宗の生涯を14章に分けて、わかりやすく紹介しました。
楊貴妃とのロマンスばかりが取り上げられる玄宗ですが、楊貴妃と出会う前の玄宗はカリスマ性に溢れていました。
一方、楊貴妃を失った後の玄宗は寂しい生活を送りました。
77年の生涯には、人間らしさがたくさん詰まっていたんですね。
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