中国史上唯一の女帝である則天武后の後を継いだ中宗(李顕)。
則天武后のインパクトが強く、影の薄い皇帝ですが、中宗はどのような人物なのでしょうか。
中宗の生涯、妻・韋皇后と娘・安楽公主に毒殺(死因)された理由を紹介します。
中宗ってどんな人?
中宗は唐の第4代皇帝で、第3代皇帝・高宗(李治)の第7皇子です。
則天武后の第3子で、656年に生まれました。

名前は李顕といいます。
則天武后は男の子を4人を2人産みましたが、長男・李弘、次男・李賢は皇太子時代に亡くなります。
そのため、則天武后が産んだ男の子の中で、初めて皇帝に即位したのが中宗でした。
ところが、則天武后によって、中宗は即位からわずか55日で廃されました。

中宗の妻・韋皇后が、父を昇進させてほしいと人事に首を突っ込んだからです。
中宗は則天武后に相談することなく、韋皇后のお願いを聞いてしまいます。
国のトップは皇帝である中宗ですが、政治手腕は則天武后のほうが断然上。
臣下から慕われている則天武后が実質的なトップでした。
則天武后は中宗を廃し、房州(湖北省十堰市)に流罪にしました。
第5代皇帝・睿宗(李旦)が則天武后に譲位し、則天武后が皇帝になりました。
後継者を甥・武三思にするか、中宗にするか。
則天武后が悩んでいたところ、宰相・狄仁傑が「甥と子どものどちらが大事なのか」と問います。
則天武后は中宗を呼び戻し、699年、中宗は皇太子に再び冊立されました。
更にそれから6年が経った705年。
宰相・張柬之は中宗への譲位を求めるクーデター(神龍の政変)を起こします。
クーデターが成功すると、中宗は復位して第6代皇帝になりました。
死因は妻・韋皇后と娘・安楽公主による毒殺!理由は?
中宗と韋皇后の夫婦仲は良く、流罪先の房州で安楽公主が誕生しました。

安楽公主は中宗夫婦の最後の子どもで、とても可愛がられて育ちました。
中宗が復位すると、第3皇子・李重俊が皇太子になります。
ところが、韋皇后と安楽公主は李重俊を差し置いて、朝廷に関与するようになりました。
李重俊は韋皇后が産んだ子どもではありませんでした。
中宗が譲位した後、冷たい仕打ちを受けるのではないかと二人は不安になったんです。
そこで、韋皇后と安楽公主は第2、第3の則天武后になって、国のトップに立とうとします。

でも、二人には則天武后のような政治手腕や臣下からの厚い信頼はありません。
中宗は皇太子の女性版・皇太女になりたがる安楽公主を突っぱねました。
また、この頃、韋皇后には愛人が複数いて、宮廷や街は韋皇后の悪い噂で持ちきりになりました。
皇后は全女性のお手本のような存在。
「韋皇后は皇后にふさわしくない」と言い出す者が続出しました。
☑ 中宗の対応に不満を抱いていた
☑ 中宗や李重俊に廃されるのではないかと心配した
韋皇后と安楽公主は、中宗の食事に毒を盛って殺してしまいました。
まとめ:中宗は母と妻子に振り回され続けた
中宗の生涯、妻・韋皇后と娘・安楽公主に毒殺(死因)された理由を紹介しました。
唐の第4代皇帝だった中宗。
母・則天武后、妻・韋皇后、娘・安楽公主に振り回され、最期は妻子に毒殺される過酷な人生を送りました。
在位期間はのべ5年程度で、後世に伝わるような功績は残していません。
でも、韋皇后と安楽公主の陰謀を阻止しようとした点では、勇敢な皇帝といえるのではないでしょうか。
中国時代劇を見て、則天武后に興味をもった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
則天武后について知りたい方は、氣賀澤保規著「則天武后」がおすすめ。
則天武后の心理状態が適度に描写され、小説のようにスラスラ読めます。
ぜひ一度、「則天武后」を読んでみてください。
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