中国史上唯一の女帝である則天武后の後を継いだ中宗。
則天武后のインパクトが強く、あまり注目されない皇帝ですが、中宗はどのような人物なのでしょうか。
中宗の生涯、妻・韋皇后と娘・安楽公主に毒殺された理由を紹介します。
中宗ってどんな人?
中宗は唐の第4代皇帝で、第3代皇帝・高宗の第7皇子です。
則天武后の第3子で、656年に生まれ、名前は李顕といいます。
則天武后は男の子を4人、女の子を2人産みましたが、長男・李弘、次男・李賢は皇太子時代に亡くなりました。
そのため、則天武后が産んだ男の子の中で、684年、中宗は初めて皇帝に即位しました。
ところが、中宗は即位からわずか55日で廃されました。
中宗の妻・韋皇后が自分の父を昇進させてほしいと人事に首を突っ込みました。
韋皇后を正妻に迎える前、中宗には趙皇后という妻がいました。
趙皇后は左千牛将軍を務めた趙瑰と唐の初代皇帝・高祖の第19皇女・常楽公主の間に誕生しました。
でも、常楽公主と趙皇后は則天武后に不満を抱いていたため、則天武后によって排除されました。
趙瑰と常楽公主は括州(浙江省麗水市)に流され、趙皇后は幽閉されました。
幽閉中の趙皇后に与えられたのは食材。
料理をしたことがなかった趙皇后は、与えられた食材を食べられずに餓死してしまいました。
中宗が韋皇后のお願いを聞いてしまったため、則天武后の怒りに触れたんです。
国のトップは皇帝である中宗ですが、政治手腕は則天武后のほうが断然上。
臣下から慕われている則天武后が実質的なトップでした。
則天武后は中宗を廃し、房州(湖北省十堰市)に流罪にしました。
後継者を甥・武三思にするか、中宗にするか、則天武后が悩んでいたところ、宰相・狄仁傑が「甥と子どものどちらが大事なのか」と問い、則天武后は中宗を呼び戻し、699年、中宗は皇太子に再び冊立されました。
更にそれから6年が経った705年、宰相・張柬之は中宗に譲位を求めるクーデターを起こしました。
則天武后が張兄弟という美少年に溺れて政務を怠ったためです。
クーデターが成功すると、中宗は復位して第6代皇帝になりました。
妻・韋皇后と娘・安楽公主に毒殺された理由は?
妻・韋皇后のお願いを聞いてしまったせいで、中宗は廃されたうえに流罪になってしまいましたが、中宗と韋皇后の夫婦仲は良く、流罪先で安楽公主が誕生しました。
安楽公主は中宗夫婦の最後の子どもで、とても可愛がられて育ちました。
中宗が復位すると、第3皇子・李重俊が皇太子になりましたが、韋皇后と安楽公主は李重俊を差し置いて、朝廷に関与するようになりました。
というのも、李重俊は韋皇后が産んだ子どもではなかったため、中宗が譲位した後、冷たい仕打ちを受けるのではないかと不安になったんです。
また、李重俊の実の妹ではない安楽公主も、自分の将来を心配していました。
そこで、韋皇后と安楽公主は第2、第3の則天武后になって、国のトップに立とうとしていたんです。
でも、二人には則天武后のような政治手腕や臣下からの厚い信頼はありません。
中宗は皇太子の女性版・皇太女になりたがる安楽公主を突っぱねました。
また、この頃、韋皇后には愛人が複数いて、宮廷や街は韋皇后の悪い噂で持ちきりになりました。
皇后は全女性のお手本のような存在。
「韋皇后は皇后にふさわしくない」と言い出す者が続出しました。
中宗の対応に不満を抱き、また、自分が廃されるのではないかと恐れた韋皇后と安楽公主は、中宗の食事に毒を盛って殺してしまいました。
まとめ
中宗の生涯、妻・韋皇后と娘・安楽公主に毒殺された理由を紹介しました。
中宗は唐の第4代皇帝でしたが、母・則天武后、妻・韋皇后、娘・安楽公主に振り回され、最期は韋皇后と安楽公主に毒殺されるという過酷な人生を送りました。
在位期間が述べ5年程度で、後世に伝わるような功績は残していませんが、韋皇后と安楽公主の陰謀を阻止しようとしたため、勇敢な皇帝と言えるのではないでしょうか。
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