【唐】楊貴妃ってどんな人?生涯をわかりやすく解説

世界三大美人の一人に数えられる楊貴妃ですが、傾国の美女としても有名ですよね。
何故、楊貴妃は傾国の美女と呼ばれているのでしょうか。

楊貴妃の生涯を8つに分けて紹介します。

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718年に生まれる

楊貴妃は718年生まれで、蜀州(四川省成都市)の出身。

父は蜀州司戸・楊玄琰、母は李氏で、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいます。

おゆう
おゆう

司戸とは土地や戸籍を管理する官職です。

幼い頃に両親が亡くなり、叔父・楊玄璬に育てられました。

李瑁と結婚する

735年、唐の第9代皇帝・玄宗の第18皇子・李瑁と結婚しました。

おゆう
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李瑁は玄宗が寵愛した武恵妃が産んだ子どもです。

当時、皇子の后妃選びには、両親の家柄が重視されていました。
紹介したように、楊貴妃の父親は司戸を務めていて、皇子の后妃の家柄としては不十分。
楊貴妃には、家柄を補うほどの魅力があったんだと思います。

玄宗から寵愛を受ける

李瑁と結婚して5年が経った頃、玄宗に容姿、舞や音楽のセンスを気に入られて、李瑁と離縁することになりました。

楊貴妃は出家して、女道士になりました。

おゆう
おゆう

李瑁と離縁してすぐに、玄宗が側室に迎えると、玄宗は息子から妻を奪った節操のない男になってしまいます。
そこで、楊貴妃を出家させて、俗世を絶たせたんです。

でも、出家や女道士は形式的なもの。
実際には、宮中の太真宮に住んで、皇后と同じ待遇を受けました。

貴妃に冊立される

女道士になって5年が経った745年、楊貴妃は貴妃に冊立され、正式に玄宗の側室になりました。

既に他界している父・楊玄琰には兵部尚書が、母・李氏には涼国夫人が追贈されました。

育ての親である楊玄璬は光禄卿、従兄の楊銛は殿中少監、楊錡は駙馬都尉に任命され、楊錡は玄宗の第21皇女・太華公主と結婚しました。

おゆう
おゆう

太華公主は武恵妃が産んだ子どもです。
つまり、李瑁の妹です。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

李瑁が気の毒です。

安禄山を養子に迎える

楊貴妃は玄宗の寵愛を独占しましたが、二人の間には子どもがいませんでした。

玄宗が信頼していた范陽節度使兼平盧節度使・安禄山は、玄宗と楊貴妃の子どもになりたいと申し出、玄宗と楊貴妃は快諾しました。

楊氏一族が栄華を極める

748年、楊貴妃の姉3人が韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人(合わせて、三国夫人と呼ぶ)の称号を与えられました。

おゆう
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また、毎月10万銭の化粧代を渡すことになりました。

楊銛は上から数えて3番目の正二品の官職・上柱国に昇進、また、楊貴妃の又従兄・楊国忠は御史中丞に任命されました。

754年には、楊玄琰に太尉、涼国夫人に梁国夫人が追贈され、楊玄璬は工部尚書に任命されました。

楊貴妃が貴妃に冊立されて以降、楊氏一族は次々と昇進し、出世したい者は楊氏一族に賄賂を渡すようになりました。

安史の乱が勃発する

次々と出世した楊国忠でしたが対外政策に失敗し、安禄山はたくさんの部下を亡くしてしまいました。
部下想いの安禄山は楊国忠を恨み、二人の関係に亀裂が生じました。
やがて、二人の対立は深まり、安禄山は朝廷から楊国忠を追い出すことを目的に、クーデターを起こすことにしました。

755年、安禄山は盟友・史思明と共に、クーデターを起こしました。

たった一ヶ月で洛陽を陥落し、安禄山の勢いを恐れた玄宗は「皇太子・李亨に国を任せて、安禄山を討ちに行く」と言いました。

おゆう
おゆう

つまり、皇太子に譲位すると言ったんです。

焦った三国夫人と楊国忠は、玄宗を思いとどまらせるように、楊貴妃にお願いしました。
楊貴妃は「陛下が安禄山を討ちに行くなら、私は死ぬ」と言って、玄宗の親征を止めました。

38歳で亡くなる

安禄山の勢いは止まらず、身の安全を確保するために、玄宗と宗室、楊氏一族は蜀へ逃げることにしました。
でも、馬嵬(陝西省咸陽市)に到着した時、左龍武大将軍・陳玄礼が、安史の乱が勃発する原因をつくった三国夫人と楊国忠を殺しました。

楊氏一族で残ったのは楊貴妃だけ。
楊貴妃は政治に関与せず、また、三国夫人や楊国忠のように贅沢な暮らしをしませんでした。

もし、楊貴妃が贅沢を言っていたとしたら、ライチを望んだことぐらいです。

おゆう
おゆう

楊貴妃はライチが大好物で、玄宗が嶺南からライチを取り寄せていました。

楊貴妃自身が悪いことをしていなくても、楊貴妃がいなくならなければ、陳玄礼を含め、兵の怒りは治まりません。
楊貴妃を失いたくない玄宗は、楊貴妃を殺さないように、兵に懇願しましたが、「兵の怒りを治めるためには、楊貴妃を殺すしかない」と高力士に諭されました。

玄宗は楊貴妃の処分を高力士に一任しました。
楊貴妃は「陛下を恨みません」と言い残して、38歳で亡くなりました。

まとめ

楊貴妃の生涯を8つに分けて紹介しました。

楊貴妃は玄宗の第18皇子・李瑁と結婚しましたが、玄宗に気に入られて離縁し、745年、貴妃に冊立されて、玄宗の側室になりました。

以降、楊氏一族は次々と昇進。

そして、玄宗から信頼されていた楊国忠と安禄山の関係に亀裂が生じ、安禄山は楊国忠の排除を目的に、クーデターを起こしました。

安史の乱が勃発して一年後、陳玄礼は三国夫人と楊国忠を殺しました。
兵の怒りを治めるため、玄宗は楊貴妃の処分を高力士に一任し、楊貴妃は38歳で亡くなりました。

楊貴妃は傾国の美女と呼ばれていますが、唐を傾かせたのは、楊貴妃ではなく、楊貴妃にあやかった楊国忠と三国夫人、そして、楊氏一族を次々と昇進させた玄宗かもしれませんね。

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