玄宗の寵愛を独占した楊貴妃。
楊貴妃が玄宗の側室に迎えられると、楊氏一族は高い官職を与えられ、栄華を極めました。
中でも、特に有名なのが、楊貴妃の姉・韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人の3人です。
確かに、いずれも昔の国名ですが、領地とは無関係です。
3人は三国夫人と呼ばれましたが、どのような人物なのでしょうか。
楊貴妃の姉・韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人について紹介します。
楊貴妃の姉・韓国夫人ってどんな人?
韓国夫人は楊玄琰の長女です。
秘書少監・崔峋と結婚しましたが死別しました。
秘書少監とは宮廷内の図書を管理する秘書省の副長官です。
娘・崔氏は唐の第10代皇帝・粛宗の長男・李俶の(後の第11代皇帝・代宗)の正室になりました。
崔氏は746年に、代宗の第2皇子・李邈を出産しました。
崔貴妃は代宗の第11皇子・李偲、第4皇女・昇平公主を出産しました。
玄宗が楊貴妃を寵愛したことにより、崔氏を含む楊氏一族は栄華を極めましたが、755年に安史の乱が勃発したことで一転します。
安史の乱が勃発する原因をつくったのは、楊貴妃の又従兄・楊国忠だったからです。
756年、韓国夫人は左龍武大将軍・陳玄礼率いる兵に殺されました。
また、楊氏一族である崔氏は代宗と不仲になり、代宗から冷遇され、757年に亡くなりました。
楊貴妃の姉・虢国夫人ってどんな人?
虢国夫人は楊玄琰の次女です。
裴氏と結婚しましたが、長男・裴徽と長女を出産した後に死別。
長年、楊国忠と不倫し、楊貴妃が玄宗の側室として迎えられると、玄宗に楊国忠を官吏登用するように推薦しました。
また、裴徽を粛宗の第4皇女・郜国公主と結婚させました。
玄宗の寵愛を独占した楊貴妃ですが、虢国夫人のせいで、一度だけ嫉妬して怒ったことがあります。
楊貴妃が貴妃に冊立された翌年、746年のこと。
宴会に出席した玄宗と虢国夫人が、人目を盗んで抱き合ったり、手を繋いだりしているところを、楊貴妃が目撃。
楊貴妃は嫉妬して、宴会を中座しました。
皇帝に一言もなく宴会を中座するなんて、とても失礼な行動。
玄宗の怒りを買った楊貴妃は、兄・楊銛の自宅で過ごすことになりました。
これまで、玄宗の寵愛を独占した楊貴妃のおかげで栄華を極めてきた楊氏一族。
自分の軽はずみの行動で、楊貴妃を怒らせたにもかかわらず、虢国夫人は楊貴妃に「陛下に謝罪するように」とアドバイスします。
なんと虫のいい話なのかしら。
もちろん、楊貴妃は玄宗に謝罪しませんでしたが、楊貴妃を宮廷から追い出した玄宗が耐えきれなくなり、楊貴妃を宮廷に呼び戻しました。
痴話喧嘩のようなものですが、虢国夫人が楊国忠の愛人だったことを考えると、男性に依存する女性だったのかもしれません。
① 玄宗から毎月10万銭の化粧代を与えられていましたが、顔に自信があったため、化粧を全くしなかった
② 他人の家に勝手に入って、勝手に取り壊して、その敷地内に自宅を建てた
③ 楊国忠が行う人事面接にこっそり立ち会って、容姿について悪口を言った
という逸話も残っています。三国夫人の中で、最も曲者だったのではないでしょうか。
756年、韓国夫人が殺されると、裴徽、長女、楊国忠の妻を殺して、自殺しようとしましたが未遂に終わりました。
その後、固まった血が気道を塞いで亡くなりました。
楊貴妃の姉・秦国夫人ってどんな人?
秦国夫人は楊玄琰の三女です。
柳澄と結婚しましたが死別。
長女・柳鈞は尚長清県主の称号を与えられました。
秦国夫人は754年に亡くなっていて、三国夫人の中で唯一、安史の乱を経験しませんでした。
まとめ
楊貴妃の姉・韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人について紹介しました。
楊貴妃のおかげで、栄華を極めた三国夫人でしたが、その最期は悲惨なものでした。
地位が高くなっても、おごりたかぶらないことが大事ですね。
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