唐に度々侵攻し、唐を脅かした吐蕃。
でも、唐と吐蕃は完全に隣り合っていたわけではありません。
唐の西北部は吐谷渾と隣り合っていました。
唐と吐蕃に挟まれていた吐谷渾に、唐から弘化公主が嫁ぎました。
弘化公主はどのような人物なのでしょうか。
弘化公主の生涯を6つに分けて紹介します。
623年に生まれる
弘化公主は623年生まれで、隴西成紀(甘粛省天水市)の出身。
吐谷渾の王・諾曷鉢に嫁ぐ
639年、吐谷渾の王・諾曷鉢が唐の第2代皇帝・太宗に謁見しました。
慕容順は隋で人質となり、長年隋で暮らしていました。
そのため、吐谷渾の首長になっても、人々から支持を得られず、慕容順は臣下に殺されてしまったんです。慕容順が亡くなった後、諾曷鉢は悲しみに暮れる暇もなく首長になりました。
幼い諾曷鉢に代わって、大臣が政権を握ろうと権力争いを繰り広げ、吐谷渾で内乱が起きると、太宗は吐谷渾に兵を送り、諾曷鉢を援助しました。
太宗に助けられた諾曷鉢が謁見した目的は、唐と姻戚関係を結ぶため。
当時、吐谷渾は南部の吐蕃と争いを繰り返していました。
唐も吐蕃と争いを繰り返していて、唐と吐谷渾にとって、吐蕃は共通の敵でした。
吐蕃と戦っている最中に、唐に攻められたら、吐谷渾は滅亡してしまいます。
そこで、諾曷鉢は公主の降嫁を求め、唐と和平を保とうと考えたんです。
王朝が隋から唐に変わったとはいえ、諾曷鉢は唐に降嫁を求めやすかったのかもしれません。
640年、太宗は諾曷鉢の申し出を受け入れ、弘化公主を諾曷鉢に嫁がせました。
弘化公主が吐谷渾に嫁いだことで、唐と吐谷渾の関係は改善され、和平を保つことができました。
唐に亡命する
ところが、吐谷渾で内乱が再び起きてしまいます。
641年、吐谷渾の丞相・宣王が弘化公主を襲撃。
諾曷鉢を連れて、吐蕃に亡命しようとしたんです。
諾曷鉢と弘化公主は宣王に捕まる前に唐の領土に逃げ、鄯州(青海省西寧市)刺史・杜鳳挙と共に宣王を攻撃しました。
648年、弘化公主は慕容忠を授かりました。
649年、太宗が崩御し、高宗が即位すると、諾曷鉢は駙馬都尉に任命されました。
大臣に裏切られる
唐と吐谷渾にとって、共通の敵だった吐蕃。
吐蕃は唐を攻めず、吐谷渾を攻めるようになりました。
641年に、太宗が吐蕃に文成公主を嫁がせたため、唐と吐蕃は和平を保っていたんです。
吐蕃は唐に攻めの援助を、吐谷渾は唐に守りの援助を要請しましたが、唐は吐蕃と吐谷渾の中立国。
高宗は吐蕃、吐谷渾の要請に応じませんでした。
すると、吐谷渾にとって、思いがけない事態が起きます。
吐谷渾の大臣・素和貴が吐蕃に亡命し、吐谷渾の情報を流したんです。
吐谷渾の情報を得た吐蕃は、吐谷渾を積極的に攻撃し、攻撃を防ぎきれなかった諾曷鉢は、弘化公主と一緒に涼州(甘粛省武威市)に逃げました。
唐に帰属する
逃げ切ることのできた諾曷鉢と弘化公主は唐に帰属し、666年、高宗は諾曷鉢を青海国王に封じました。
高宗は滅亡の危機に瀕している吐谷渾を復興させようと、邏娑道行軍大総管・薛仁貴、副総管・阿史那道真、郭待封に、5万の兵を率いて吐蕃を攻撃するように命じました。
ところが、吐谷渾の兵、領土を得ていた吐蕃の軍事力は高く、唐軍は大非川の戦いで敗れてしまいました。
吐谷渾に戻ることができなくなった諾曷鉢は、安楽州刺史(寧夏回族自治区)に任命されました。
76歳で亡くなる
688年、諾曷鉢が亡くなると、慕容忠が安楽州刺史になりました。
高宗が崩御し、則天武后が即位すると、弘化公主に対する感謝の意を込めて、武氏を与え、大周西平大長公主に封じました。
698年、弘化公主は病を患い、76歳で亡くなりました。
慕容忠は金城県主を、闥卢摸末は金明県主と結婚し、唐の宗室と関係を維持しました。
まとめ
弘化公主の生涯を6つに分けて紹介しました。
吐谷渾は厳しい寒さだったため、農業に向いておらず、他民族と交易を行うことで財政を確保していました。
吐谷渾が滅亡の道をたどったのは、丞相や大臣の裏切りがきっかけです。
でも、吐蕃や唐の関係が崩れ、他民族と交易を行うことができなくなると、吐谷渾は存続が厳しかったのではないかと考えると、遅かれ早かれ、吐谷渾は滅亡する運命にあったのかもしれません。
そんな吐谷渾に嫁ぎ、唐と吐谷渾の関係改善に努めた弘化公主。
43歳で故郷である唐に戻ることができたとはいえ、吐谷渾での生活では気を遣いっぱなしだったかもしれませんね。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!