暴君として有名な煬帝に仕え、煬帝に反旗を翻した楊玄感。
楊玄感はどのような人物なのでしょうか。
また、楊玄感と一緒に反乱を起こしたのが、軍略家として有名な李密です。
何故、李密は一緒に反乱を起こしたのでしょうか。
楊玄感の生涯、李密が一緒に反乱を起こした理由、反乱の経過を紹介します。
楊玄感ってどんな人?
楊玄感は弘農郡華陰県(陝西省渭南市)の出身。
父は北周、隋で文官、軍官として仕えた楊素です。
楊素のツテで、刺史を歴任する
楊堅が隋を建国し、初代皇帝・文帝として即位すると、楊素は特に取り立てられました。
文帝は疑い深い性格で、寵臣が権力を握ると、帝位を奪われないように、朝廷に関与できない役職に任命したり、左遷して都から遠ざけたりしていました。
特に取り立てられた楊素も同じで、楊素が権力を握ると、楊素に代わって、柳述(りゅうじゅつ)が取り立てられました。
文帝に疎まれたものの、楊素は文帝の第2皇子・楊広(後の煬帝)に取りたてられました。
楊素のもとに生まれた楊玄感は、楊素のツテで郢州(湖北省武漢市)刺史、宋州(河南省商丘市)刺史を務めました。
礼部尚書に任命される
604年、楊広が第2代皇帝・煬帝として即位しました。
煬帝は兄・楊勇を皇太子の座から引きずり下ろし、自らが皇太子となりましたが、この時、一番手柄を立てたのが楊素です。
煬帝は楊素を三公の一つ・司徒に任命しました。
三公の一つというと、聞こえはいいですが、楊素は朝廷から遠ざけられ、実権を奪われてしまいました。
流石は親子。
文帝と煬帝の疑い深いところは同じだったんですね。
楊素の死後、楊玄感は楊素の恩恵にあずかって、礼部尚書(長官)に任命されました。
李密が一緒に反乱を起こした理由と経過
楊玄感の父・楊素が司徒に任命された後、楊素に代わって、煬帝が取り立てたのは宇文述(うぶんじゅつ)でした。
文帝、煬帝と2代にわたって仕えてきた父を邪魔者扱いされた楊玄感は、徐々に不満がたまりました。
不満がたまっていたところへ、楊玄感のもとに、親友・李密が訪ねてきました。
楊玄感は李密を参謀として、反乱を起こしました。
楊玄感が不満を爆発させ、李密と一緒に反乱を起こすに至った理由と反乱の経過をみていきましょう。
李密と一緒に反乱を起こした理由
まずは、楊玄感が不満を爆発させ、李密と一緒に反乱を起こすに至った理由です。
二人は煬帝と仲が悪かった
紹介したように、楊広が皇太子になる時に、一番手柄を立てたのが楊玄感の父・楊素です。
楊素が楊広を手助けしなければ、楊広は皇太子になれず、また、皇帝に即位できなかったかもしれません。
煬帝は楊素に恩を感じていましたが、楊素が権力を握るにつれて、邪魔者扱いするようになりました。
邪魔者扱いされる楊素を見て育った楊玄感は、父に代わって、煬帝に恨みを抱いていました。
また、李密の父・李寛は隋に仕えていましたが、李密自身は幼い頃に楊広から疎まれた経験があり、煬帝に復讐したいと思っていました。
楊玄感は任命された役職に不満を抱いていた
613年、煬帝が第2次高句麗遠征を行った時のこと。
楊玄感は黄河と永済渠の交差点に当たる黎陽で、輜重部隊の監督に任命されました。
楊玄感に与えられた仕事は、南方から運ばれる物資を積み替えて、戦闘の最前線に送るもの。
軍官だった楊素を父に持ち、礼部尚書を務めた楊玄感にとって、輜重部隊は地味な仕事で、輜重部隊の監督に任命されたことに不満を抱きました。
文官より、軍官として活躍する人材でした。
一方、楊素に代わって取り立てられた宇文述は、軍の指揮官に任命されました。
楊玄感は煬帝の悪政にうんざりしていた
煬帝はあの有名な大運河を短期間で建設しました。
大運河を利用して、各地に物資を運ぶことができるようになりましたが、一方で、大運河の建設時には、たくさんの民が命を落とし、また、貧困に陥りました。
そして、民が生活に苦しむ中、煬帝は第1次高句麗遠征に失敗したにも関わらず、第2次高句麗遠征を行いました。
勝ち目のない高句麗遠征を行う資金、食糧があるなら、民のために使うべき。
楊玄感は煬帝の悪政に、堪忍袋の緒が切れてしまいました。
反乱の経過
紹介した3つの理由から、楊玄感は煬帝に反旗を翻し、楊堅の第3皇子である楊俊の子ども・楊浩を皇帝に擁立しようと挙兵しました。
① 高句麗の最前線に向かい、高句麗軍と楊玄感軍で煬帝を挟み撃ちにする戦略
② 都・長安を陥落する戦略
③ 都の近くにある洛陽を陥落する戦略
です。
李密は①、②、③の順番に良い策だと言いました。
何故、③の策が最も良くない策かというと、洛陽には兵が配備されているからです。
ところが、楊玄感は③の策を採用しました。
官吏の家族が洛陽に住んでいるため、洛陽を陥落して、人質にすれば、煬帝に仕えている官吏が降参するに違いないと考えたんです。
①、②、③の順番に良い策だと言っているにも関わらず、③の策を選んだ楊玄感を見て、李密は楊玄感に加担したことを後悔しました。
輜重部隊の監督を任された楊玄感の手元には、戦闘の最前線へ送る食糧があり、楊玄感は最前線へ送ることなく、食糧を民に分け与えました。
民は楊玄感の優しさに感動し、反乱に加担することを決めました。
ところが、李密が言ったとおり、洛陽は防御力が高く、楊玄感は洛陽を陥落できませんでした。
慌てた楊玄感は③の策から②の策に切り換え、長安を目指しました。
長安に向かう途中、離宮・弘農宮を通りがかった時、「弘農宮には食糧がたくさんあるから、戦闘に備えて持って行くべきだ」という噂を耳にしました。
楊玄感は長安に向かう足を止めて、弘農宮に向かいました。
ところが、弘農宮になかなか突入できず、3日も費やしてしまいました。
そうこうしている間に、隋軍がやって来て、楊玄感は弟・楊積善と刺し違えて亡くなりました。
楊玄感に味方をした民3万人は殺され、その家族は奴隷にされてしまいました。
李密はどうなったの?
李密は生き延びました。
李密は隋軍に捕らえられて長安に護送されることになりましたが、懐に忍ばせていたお金を兵に渡して、お酒を買うように勧め、兵を酔わせたうえで逃亡したんです。
流石、参謀ですね。
楊玄感の反乱は3ヶ月で鎮圧され、失敗に終わりました。
でも、楊玄感が反乱を起こしたことに勇気づけられた武装集団が次々と反乱を起こし、この後、隋は滅亡の一途をたどっていきます。
まとめ
楊玄感の生涯、李密が一緒に反乱を起こした理由、反乱の経過を紹介しました。
楊玄感は父・楊素のツテで官職に就き、文帝、煬帝に仕えましたが、文帝、煬帝に父を邪魔者扱いされた楊玄感は、父に代わって恨みを抱いていました。
また、李密は幼い頃に楊広から疎まれた経験があり、煬帝に復讐したいと思っていました。
利害が一致した楊玄感と李密は一緒に反乱を起こしましたが、李密の策を素直に受け入れず、楊玄感は反乱に失敗して亡くなりました。
楊玄感の反乱は失敗に終わりましたが、楊玄感に続いて反乱を起こす者が続出。
楊玄感の反乱をきっかけに、隋は滅亡の一途をたどることになりました。
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