【宋】明帝(劉彧)が猪王と呼ばれた、弟の子どもを引き取った理由

異母兄弟や大臣を殺すなど、礼に反した行動ばかり取った宋の第5代皇帝・前廃帝(劉子業)。
続いて即位した皇帝は甥・劉子勛を殺しました。

の第6代皇帝・明帝劉彧の生涯猪王と呼ばれた理由、弟の子どもを引き取った理由を紹介します。

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明帝ってどんな人?

明帝は439年生まれで、第3代皇帝・文帝(劉義隆)と側室・沈婕妤の間に、第11皇子として誕生しました。

名前は劉彧(りゅういく)といいます。

領軍将軍になる

448年には淮陽王に、452年7月には湘東王に封じられました。
453年、文帝の第1皇子である異母兄・劉劭が文帝を殺して即位すると、劉彧は驍騎将軍、給事中となりました。

劉駿が劉劭を殺して、第4代皇帝・孝武帝として即位すると、劉彧は秘書監となりました。

454年、劉彧は南彭城東海二郡太守となり、京口(江蘇省鎮江市)に赴任し、455年1月、都・建康に呼び戻されて中護軍となりました。

その後、劉彧は侍中、游撃将軍となり、456年には衛尉、左衛将軍に、457年1月には中護軍に任命されました。

459年には都官尚書、463年には領軍将軍となりました。

雍州刺史になる

464年、孝武帝が崩御し、孝武帝の第1皇子である甥・劉子業が第5代皇帝・前廃帝として即位しました。

465年、劉彧は南豫州(安徽省宣城市)刺史に任命され、姑孰(安徽省馬鞍山市)に赴任しました。

その後、劉彧は雍州(陝西省西安市)刺史となり、開府儀同三司の位を授けられました。

前廃帝を殺して、即位する

劉彧自身は前廃帝から敵対心を抱かれることはありませんでしたが、異母弟・劉子鸞や大臣を殺すなど、前廃帝は礼に反した行動ばかり取っていたため、劉彧は内監・阮佃夫や側近・李道児と共に前廃帝を暗殺しました。

また、孝武帝の第2皇子・劉子尚や第1皇女・劉楚玉を殺しました。

劉楚玉は女性でありながら、30人もの愛人を抱えていました。

12月、劉彧は第6代皇帝・明帝として即位しました。

坊っちゃん
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明帝は迷信好きで、避けるべき文字を書いた者を殺し、臣下を恐れさせました。

クーデターを起こした劉子勛を処刑する

明帝が即位したことを良く思っていなかった江州(江西省九江市)刺史・鄧琬は、孝武帝の第3皇子・劉子勛を擁立してクーデターを起こしました。

鄧琬のクーデターに呼応して、明帝を倒そうと、徐州(江蘇省徐州市)刺史・薛安都や冀州(河北省滄州市)刺史・崔道固、湘州(湖南省長沙市)行事・何慧文、広州(広東省広州市)刺史・袁曇遠、益州(四川省成都市)刺史・蕭恵開、梁州(陝西省漢中市)刺史・柳元怙が次々と挙兵。

薛安都は北魏に兵の援助を依頼し、北魏軍と共に官軍に勝利したため、淮北4州と豫州の淮西を北魏に奪われてしまいました。

明帝は劉子勛を捕らえて処刑し、クーデターを鎮圧しましたが、472年4月、明帝は病を患い、34歳で崩御しました。

猪王と呼ばれた理由

明帝は肥満で、前廃帝から「猪王」と呼ばれていました。

おゆう
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残飯を無理やり食べさせられたこともありました。

即位前から礼に反した行動を取っていた前廃帝は、前廃帝を長年恨んでいた明帝に殺される運命だったのかもしれません。

弟の子どもを引き取った理由

晩年、明帝は病で動けなくなると、弟の妻や愛人が産んだ男の子を引き取り、自分の子ども(皇子)だと称して、後宮で育てました。

真実を知る生母は、明帝によって口封じのために殺されました。
そのため、明帝の皇子には、血の繋がっていない皇子が含まれている可能性が高いといわれています。

まとめ

の第6代皇帝・明帝劉彧の生涯猪王と呼ばれた理由、弟の子どもを引き取った理由を紹介しました。

第5代皇帝である甥・前廃帝(劉子業)を廃して殺し、即位後には、孝武帝の第3皇子である甥・劉子勛を殺した明帝。
前廃帝が礼に反した行動ばかり取ったり、劉子勛がクーデターを起こしたりしたとはいえ、親族を次々と殺すことは想像できません。

反対に、何故、明帝が親族に暗殺されなかったのかが気になりますね。

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