武帝(劉裕)の甥・劉義慶の娘と結婚し、皇族と姻戚関係を結ぶも、プライドが高く、ワガママばかりで、孝武帝(劉駿)の機嫌を損ねた名門貴族出身の文官がいました。
琅邪王氏出身の王僧達の生涯を紹介します。
劉義慶の娘と結婚する
王僧達は423年生まれで、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)の出身。
文帝に謁見した時、受け答えが気に入られ、武帝の甥・劉義慶の娘と結婚し、皇族と姻戚関係になりました。
劉義慶に監視される
20歳になる前に、文帝の第2皇子・劉濬のもとで後軍参軍となり、その後、太子舎人となりました。
仮病を使って仕事を休み、闘鴨を観戦するなど、与えられた仕事に真面目に取り組まない面もありましたが、罪に問われることはありませんでした。
ところが、少年達と一緒に鷹や犬を追いかけたり、牛を自ら殺したりと、見過ごせない行動に出るようになり、義父・劉義慶は僧・慧観に王僧達を見張らせました。
ある日、王僧達と慧観が書物について議論した時、慧観は王僧達の質問に答えられませんでした。
王僧達の賢さ、鋭さに感心した慧観は劉義慶に報告し、王僧達は監視を免れることになりました。
宣城郡太守となる
江夏(湖北省武漢市)内史を務めていた兄・王錫と仲が悪く、王僧達に配慮した文帝は、王僧達を江夏から離れた秦郡(江蘇省南京市)太守に任命しようとしました。
でも、吏部郎・庾炳之の反対を受けて、王僧達は太子洗馬に任命されました。
母が亡くなると、辞職して、故郷に帰り喪に服しました。
喪が明けるとすぐに都に呼び戻されて、宣城郡(安徽省宣城市)太守となりました。
451年、北魏が侵攻し、建康に迫ると、王僧達は身を守るべく建康城内に入りました。
北魏軍が撤退すると、王僧達は再び宣城郡太守として宣城郡に出向き、その後、義興郡(江蘇省宜興市)太守となりました。
尚書右僕射となる
453年、文帝の第1皇子・劉劭が文帝を殺して、自ら皇帝として即位しました。
文帝の第3皇子・劉駿は、父を殺した劉劭を倒すべく挙兵。
王僧達が劉劭と劉駿のどちらに従うべきか決めかねていたところ、周囲が劉駿に従うことを勧めたため、劉駿に従って、劉劭の廃位に協力しました。
劉劭を殺した劉駿は第4代皇帝・孝武帝として即位。
功績を称えられた王僧達は尚書右僕射に任命されました。
その後、使持節・南蛮校尉となり、征虜将軍を加授されました。
僧を恐喝する
護軍将軍に任命されましたが、王僧達は自分の才能に自信があり、護軍将軍を務めることに不満を抱きました。
そこで、徐州(江蘇省徐州市)刺史になりたいと上奏しましたが、王僧達の申し出は受け入れられませんでした。
諦めきれなかった王僧達は何度も上奏し、孝武帝の機嫌を損ないました。
王僧達は征虜将軍・呉郡(江蘇省蘇州市)太守として、呉郡に赴任することになりました。
免官処分となる
454年、武帝の第6皇子・劉義宣が反乱を起こしたため、王僧達は反乱の鎮圧を口実に、自ら兵を増やしました。
2400人の兵を抱え、80人の部隊を30隊つくりましたが、朝廷には兵の数を1000人と虚偽の報告をしました。
また、呉郡に豪華な自宅を建築するために、民を駆り出しました。
虚偽の報告をしたこと、また、民を不当に働かせたことがバレて、王僧達は免官処分となりました。
再び免官処分となる
456年、処分を解かれた王僧達は太常に任命されましたが、太常の職に不満を抱きました。
王僧達はすぐに辞職願を出しましたが、文章に横柄さが表れているとして、再び免官処分となりました。
中書令となる
武帝の第5皇子・劉義恭のもとで太傅長史となり、臨淮郡(江蘇省宿遷市)太守を兼任しました。
457年には、左衛将軍と太子中庶子を兼任し、翌年、458年には中書令となりました。
処刑されて36歳で亡くなる
孝武帝の母・路皇太后(路恵男)は貧しい家の出身で、兄・路慶之は王僧達の出身である王氏のもとで馬車夫を務めていました。
また、路慶之の孫・路琼之は王僧達の家の隣に住んでいました。
そう答えたものの、王僧達に対する孝武帝の心象は更に悪化。
路皇太后の怒りは全く治まりませんでした。
やがて、孝武帝は王僧達を処刑する口実を探すようになりました。
458年、王僧達と親交のあった高闍がクーデターを起こしました。
クーデターは失敗に終わり、高闍は殺されましたが、クーデターに関わっていたのではないかと王僧達は疑われてしまいました。
随分前から孝武帝の怒りを買っていた王僧達は処刑され、36歳で亡くなりました。
まとめ
琅邪王氏出身の王僧達の生涯を紹介しました。
自分の才能に自信のあった王僧達は、任命された役職に不満を抱き、正直に上奏したため、孝武帝の機嫌を損ねてしまいました。
堪忍袋の緒が切れたタイミングと親交のあった高闍がクーデターを起こしたタイミングが重なり、処刑する大義名分を探していた孝武帝は王僧達を処刑しました。
名門貴族出身であっても、国のトップである皇帝に勝つことはできなかったんですね。
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