【北魏】華北を統一するも宦官・宗愛に殺された太武帝(拓跋燾)

16以上の国がひしめき合っていた五胡十六国時代。
北涼を滅ぼし、華北を統一して五胡十六国時代を終結させたのが、北魏の第3代皇帝・太武帝(拓跋燾)です。

太武帝(拓跋燾)の生涯を紹介します。

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華北を統一する

太武帝は408年生まれで、北魏の第2代皇帝・明元帝(拓跋嗣)と杜貴嬪の間に、第1皇子として誕生しました。
名前は拓跋燾(たくばつとう)といいます。

423年12月に第3代皇帝・太武帝として即位すると、
424年から425年にかけて柔然を征討する
426年、夏を攻撃し、長安を占領する
427年、夏の都・統万(陝西省楡林市)を占領し、431年には夏を滅ぼす
436年、北燕を滅ぼし、遼河流域を占領する
439年、北涼を滅ぼして、華北を統一する
など、多くの国に遠征を行いました。

北涼を滅ぼしたことにより、304年から続いた五胡十六国時代が終わりを迎えました。

廃仏政策を行う

鮮卑や漢族がインドから伝わった仏教を信仰することを嫌った太武帝は、道教を重んじ国教としました。

道教の高僧・寇謙之を朝廷に迎え、政治の最高顧問に任命し、年号を道教の理想を表す「太平真君」と改めました。
444年から446年にかけては、寺や仏像を壊し、仏典を焼き捨て、仏教徒を弾圧するなど、廃仏政策を行いました。

太武帝の行った廃仏政策は、中国史に名を連ねる4人の皇帝が大規模な仏教を弾圧した事件・三武一宗の廃仏の一つに数えられています。

国史の獄を起こす

太武帝は司徒・崔浩に、国史の編纂を命じました。

おゆう
おゆう

昔から、中国史学では国に不利なことであっても、事実をありのままに執筆されてきました。

崔浩はこの伝統に則り、北魏が建国された経緯を詳細に執筆しました。
そして、300万銭もの費用をかけて、国史を彫った石碑を城内に建立しました。

坊っちゃん
坊っちゃん

太武帝は石碑に彫られた国史をチェックしていません。

国史には、北魏の建国者である初代皇帝・道武帝(拓跋珪)が遥か北方の出身であることが書かれていました。

侮辱されていると感じた太武帝は、450年6月、崔浩本人と一緒に編纂に携わった者はもちろん、崔氏一族、姻戚である范陽の盧氏一族、太原の郭氏一族、河東の柳氏一族に至るまで処刑しました。

おゆう
おゆう

この事件を国史の獄、または、国史事件といいます。

崔浩が亡くなった後、朝廷では宦官である中常侍・宗愛が権力をもちました。

中常侍の仕事は皇帝の身の回りのお世話で、常に皇帝の傍にいるため、権力を手にしやすい官職でした。

宗愛は法に触れる行動が多く、太武帝の第1皇子である皇太子・拓跋晃は宗愛を嫌っていました。
宗愛は拓跋晃の側近に嘘の罪を着せて排除し、拓跋晃はストレスにより24歳の若さで亡くなりました。

拓跋晃の死を悲しむ太武帝を見て、処刑を恐れた宗愛は太武帝を殺し、452年、太武帝は44歳で崩御しました。

まとめ

太武帝(拓跋燾)の生涯を紹介しました。

華北を統一し、五胡十六国時代を終結させるも、廃仏政策を行ったり、国史の獄を起こしたりして、民や臣下を脅かした太武帝。
廃仏政策や国史の獄は、北魏に混乱を与え、また、史記の発展を停滞させてしまいました。

太武帝の最大で唯一の功績は、華北を統一したことなのかもしれませんね。

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