北魏の第5代皇帝・献文帝(拓跋弘)、第6代皇帝・孝文帝(拓跋宏)の2代にわたって、皇太后、太皇太后として、朝廷で実権を握った馮太后(文成文明皇后)。
馮太后はさまざまな政治改革を行い、北魏の全盛期を築きました。
馮太后(文成文明皇后)が行った4つの政治改革を紹介します。
同姓不婚
同姓不婚とは、漢字のとおり、姓の同じ者同士の結婚を禁止する制度です。
もちろん、姓が同じだからといって、同族とは限りません。
でも、馮太后は姓の同じ者は皆同族とみなしました。
・男女間に血縁関係があった場合、女性が子どもを授かりにくい
・男女間に血縁関係があった場合、持病のある子どもが生まれる可能性が高い
と考えたからです。
中国で生まれた同姓不婚は李氏朝鮮にも伝わりました。
李氏朝鮮では、中国から伝わった同姓不婚をそのまま採用せず、制度を少し変更して、同姓同本不婚として採用しました。
同姓同本不婚は、姓、本籍地の同じ者同士の結婚を禁止する制度で、姓が同じでも、本籍地が異なれば結婚が認められました。
俸禄制
俸禄制が施行されたのは484年。
484年以前の北魏では、官吏は給料を与えられておらず、生計をやりくりしよう、少しでも蓄えを増やそうと、民に賄賂を要求していました。
俸禄制が施行されてから、官吏は給料を与えられ、不自由のない生活を送ることができるようになりました。
不自由のない生活を送ることができるようになっても、少しでも蓄えを増やそうとする官吏は賄賂を要求し続けたんじゃないですか?
馮太后の採用した俸禄制は、まさにアメとムチ。
規定した給料以外のものを受け取った官吏は罪に問われ、処罰を受ける法律が制定されました。
制定された法律は、賄賂や給料を返還すれば、処罰から免れるといった甘いものではなく、規定した給料以外のものを受け取ったことが発覚したら即刻死刑。
給料を与え、この上ない厳しい処罰を設けたことで、賄賂が減りました。
均田制
日本史の教科書にも登場する均田制は、中国で生まれた制度です。
均田制を採用した目的は、さまざまな作物の生産量を増やすため。
土地を露田(正田、倍田)、桑田、麻田、課田に区分し、穀物はもちろん、絹布や麻を計画的に生産させました。
15歳以上の丁男は露田40畝、丁女は露田20畝を与えられましたが、開墾する際には休耕地が必要だったため、実際にはこの2倍の土地が与えられたといわれています。
この他、丁男は桑田20畝が与えられ、与えられた土地が桑の木を植えるのに適していない土地だった場合には、桑田20畝の代わりに、麻田10畝が与えられました。
また、丁女には麻田5畝が与えられました。
必要な作物の生産量に合わせて、面積の土地を分割したんですね。
でも、土地を与えられた者全員が、収穫できるまでに作物を育てられるとは限りません。
そこで、民に生産過程を監督させました。
当時の識字率は低いんじゃないですか?民に生産過程をどうやって指導したんですか?
生産過程を口頭で指導することはできますが、口頭で指導しても、長い年月をかけて作物を生産していたら忘れてしまいますよね。
そこで、文字を読めない民が生産過程を理解し、抜け漏れなく生産過程を踏めるように、種まきから収穫までの生産過程を絵で表した紙を配りました。
三長制
紹介した3つの制度に比べて聞き慣れない三長制。
三長制とは、村落を隣(5戸)、里(5隣)、党(5里)の3つの組織に分け、その長が住民を統率する制度です。
乱立する国を滅ぼし、華北を統一した北魏にとって、国を追われて北魏に移り住んだ民を統制するのは至難の業。
三長制が施行される前は、同じ歴史的背景をもつ者で構成された集団を統制していました。
同じ歴史的背景をもつ者で構成されているからといって、その集団が隣同士に住んでいるわけではありません。
三長制の採用により、戦乱によって荒廃した郷村を再建すること、また、均田制を円滑に運営することができました。
まとめ
馮太后(文成文明皇后)が行った4つの政治改革を紹介しました。
馮太后は、同姓不婚、俸禄制、均田制、三長制などの政治改革を行い、北魏の全盛期を築きました。
男尊女卑の時代であっても、男性に負けず活躍する女性がいたんですね。
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